【現地取材】泉岳寺と赤穂義士の墓——新選組はなぜ、忠臣蔵の羽織を真似たのか

泉岳寺を訪ねると、境内には義士祭ののぼりが立っていました。妻と二人で線香を買い、四十七基の墓を一つずつ回ります。ここは赤穂義士の寺です。幕末の寺ではありません。

ただ、調べていくうちに、この寺が幕末とまっすぐつながっていることが分かってきました。泉岳寺の門前には、幕末にイギリス公使館が建っていたのです。境内には、外国人を警護する幕府の別手組が屯所を置いていました。

そしてもう一つ。新選組のあの浅葱色の羽織は、忠臣蔵の討ち入り装束を真似たものだという話があります。これが本当なのかどうか、この記事ではそこを軸に書いていきます。

泉岳寺の義士祭ののぼり。四十七士の寺として知られていますが、幕末にはこの門前が外交の最前線でした。
泉岳寺の義士祭ののぼり。四十七士の寺として知られていますが、幕末にはこの門前が外交の最前線でした。
目次

この寺から、幕末はどう見えるか

泉岳寺と幕末は、三つの線でつながっています。

  • 門前にイギリス公使館「高輪接遇所」が置かれました(慶応元年)。境内には別手組の屯所
  • 近藤勇の新選組が、忠臣蔵の討ち入り装束を真似て隊服を作りました——これは隊士本人の証言に辿れます
  • 高輪一帯は東禅寺事件・江戸薩摩藩邸焼討・西郷勝会談の舞台。維新のいちばん濃い場所でした

新選組は、なぜ忠臣蔵の羽織を着たのか

新選組といえば、浅葱色に白い山形——だんだら羽織です。これが忠臣蔵の装束を模したものだという話は、本当なのでしょうか。

調べてみると、出所は隊士本人の口にありました。永倉新八が晩年に新聞記者へ語った談話に、こうあります。

浅黄地の袖へ忠臣蔵の義士が討入りに着用した装束みたようにだんだら染を染めぬいた

「赤穂浪士」ではなく「忠臣蔵の義士」と言っています。ここが後で効いてきます。

なおこの説を「子母澤寛の創作だ」とする指摘をときどき見かけますが、子母澤の『新選組始末記』は昭和三年、永倉の談話より十五年もあとです。しかも子母澤は忠臣蔵に触れていません。忠臣蔵起源の話は、永倉の口から出たものと見るのが自然でしょう。

ただし正直に書いておくと、永倉が語ったのは事件から半世紀近くたった晩年の回想です。同時代の記録——会津藩の『騒擾日記』などは羽織の見た目こそ書き留めていますが、由来には触れていません。「隊士の証言はある。ただし後年の回想である」——確かなのはここまでです。

泉岳寺に掲げられた赤穂四十七義士の名簿。戒名と俗名が並んでいます。
泉岳寺に掲げられた赤穂四十七義士の名簿。戒名と俗名が並んでいます。

ところが、本物の赤穂浪士はだんだらを着ていません

ここが面白いところでした。史実の討ち入り装束に、だんだら模様は出てこないのです。

大石内蔵助が討ち入り前に出した申し合わせには、こう書かれています。

打込之節衣類は黒き小袖を用可申候(中略)もも引き・脚絆・わらし用可申事

黒い小袖に股引、脚絆、わらじ。揃いの派手な羽織ではありません。幕府側の記録も、浪士たちは「火事装束の体に相見申候」——火消しの格好に見えた、と書いています。

あの白い山形模様が現れるのは、討ち入りから七、八十年もたった安永・天明期の浮世絵からです。人形遣いの工夫だったという説が一般的で、江戸東京博物館も歌舞伎・浄瑠璃の衣装として説明しています。

つまり、こういうことになります。新選組が真似たのは「史実の赤穂浪士」ではなく「芝居の忠臣蔵」だった。永倉の言葉が「忠臣蔵の義士」だったことと、きれいに符合します。

浅葱色についても一言添えておきます。切腹の正装が浅葱色の麻裃であることは、天保年間の故実書『自刃録』に記載があります。ただし「新選組がその意味を込めて選んだ」と書いた史料はありません。色の意味は事実、選んだ動機は後世の解釈——ここは分けておきたいところです。

「三人一組で一人を討て」は、どこから来た話か

もう一つ、よく聞く話があります。新選組は敵一人に三人であたる集団戦法をとった。それは赤穂浪士の討ち入りの指示を真似たものだ——という説です。

これも調べてみました。結論を先に書くと、「三人一組」という数字は、赤穂側の史料にも新選組側の史料にも出てきません。

大石の申し合わせ(「人々心覚」)に書かれているのは、集合場所、装束、合図の笛と銅鑼、上野介の首の扱い、引き揚げの段取りです。戦闘中の人数比についての条文はありません。新選組の側も、局中法度にも軍中法度にも、確認できる範囲でそうした条項は見当たりませんでした。

この説をたどっていくと、行き着くのは歴史の本ではなくランチェスターの法則を使った経営コラムでした。「四十七士を三人一組に分けた」と書いているものもありますが、四十七も二十三も三では割り切れません。数字がそもそも合っていないのです。

ただし——ここからが大事なところで、「多数で囲む」という新選組の実態のほうは本物です。三条制札事件では土佐藩士八人に対して四十人以上を配置し、油小路では御陵衛士七人を数十人で囲みました。池田屋でも、突入したのは少数ですが、外を土方歳三の隊が固めています。

さらに近年の研究は、新選組が西本願寺の屯所でフランス式の軍事教練を行っていたこと、殺すより生け捕りを優先していたことを指摘しています。剣豪の一騎打ちではなく、人数で包囲して捕らえる警察組織だったというわけです。

ですから、正確に言うとこうなります。集団で囲む戦法は事実。それを赤穂浪士から学んだという話のほうは、近代になって生まれた語りです。伝わってきた話をそのまま書かず、こう記しておきます。

四十七士の墓前。一基ずつに線香を手向けていきます。
四十七士の墓前。一基ずつに線香を手向けていきます。

四十七の墓石と、笠間からの縁

義士の墓は一基ずつ並んでいて、それぞれに線香を供えられるようになっています。妻が一つずつ手向けていくのを見ていましたが、四十七人ぶんとなると、思いのほか時間がかかります。

義士墓所。この奥に四十七基の墓石が並んでいます。
義士墓所。この奥に四十七基の墓石が並んでいます。

名簿の一番上には、主君・浅野内匠頭長矩の戒名がありました。そして当サイトで笠間城を歩いたときに書いたのですが、浅野家はもともと常陸の笠間にいた家です。赤穂へ移る前、この一族は関東にいました。

浅野内匠頭長矩の墓。手前の石碑は「素願成就の梅」の謂われを記したもの。
浅野内匠頭長矩の墓。手前の石碑は「素願成就の梅」の謂われを記したもの。

さらに笠間からは、新選組最後の隊長・相馬主計が出ています。函館・弁天台場で土方歳三の死の四日後に降伏を見届け、隊を引き取った人物です。赤穂浪士の家と、新選組最後の局長。同じ城下町から出ているのです。

一基ごとに線香を手向けます。四十七人分となると、それだけで時間が過ぎていきました。
一基ごとに線香を手向けます。四十七人分となると、それだけで時間が過ぎていきました。

そして、門前はイギリス公使館でした

話を幕末に戻します。

慶応元年、幕府はイギリス側の要求を受けて泉岳寺の門前に公使館を建てました。平屋二棟、敷地は二千六百五十九坪。着任したのはハリー・パークスです。

ただし「イギリス公使館」とは呼びませんでした。攘夷派の襲撃を避けるため「高輪接遇所」という当たり障りのない名で呼んだのです。そして泉岳寺の境内には、外国人警護にあたる幕府の別手組が屯所を置きました。

名前を隠さなければならなかった理由は、すぐ近くにありました。南へ徒歩十分ほどの東禅寺——ここには安政六年から日本最初のイギリス公使館が置かれ、文久元年に水戸の浪士が襲撃しています(第一次東禅寺事件)。翌文久二年には、警護役だった信濃松本藩士が英水兵二名を斬りました。

公使館を襲われた寺から徒歩十分の場所に、名前を伏せて次の公使館を建てた。それが泉岳寺の門前でした。跡地は現在、泉岳寺前児童遊園になっています。

高輪という土地

この一帯は、幕末の江戸でもっとも密度の高い場所の一つでした。

  • 高輪大木戸——東海道の江戸口。泉岳寺から北へ徒歩七分。石垣が今も東側だけ残っています
  • 東禅寺——第一次・第二次東禅寺事件の現場。南へ徒歩十一分。国史跡です
  • 江戸薩摩藩邸(三田)——北西へ約一・五キロ。慶応三年十二月に焼き討ちされ、鳥羽伏見の引き金になりました
  • 西郷・勝会談——慶応四年三月十三日は高輪の薩摩藩下屋敷、十四日は田町の蔵屋敷とされます。ただし勝の『海舟日記』『氷川清話』、山岡鉄舟の記録で場所の書き方が食い違っており、諸説あります

東海道を下る旅人は、大木戸を出て泉岳寺の門前を過ぎ、東禅寺の前を通って品川宿へ入りました。幕末の志士も、外国公使も、みなこの道を歩いています。

なお、幕末の志士や新選組隊士が泉岳寺に参拝したという記録は、探した範囲では見つかりませんでした。羽織を真似た近藤や永倉が、この墓に手を合わせたかどうかは分かりません。

明治元年、勅使が来ています

最後に一つ。明治元年、明治天皇は勅使を泉岳寺に遣わし、義士の墓前で追弔を行わせています。

戊辰戦争のまっただ中です。新政府は、主君のために命を捨てた四十七人を国家として顕彰しました。その同じ年、忠臣蔵の羽織を真似た男たちは「賊軍」と呼ばれていました。

忠義という同じ言葉が、片方を義士にし、片方を逆賊にした。線香の煙のなかで考えていたのは、そのことでした。

【泉岳寺・場所・アクセス】

  • 所在地:東京都港区高輪二丁目11-1
  • アクセス:都営浅草線「泉岳寺駅」からすぐ/JR「高輪ゲートウェイ駅」から徒歩圏
  • あわせて歩ける幕末:高輪大木戸跡(徒歩7分)/東禅寺(徒歩11分・国史跡、境内は非公開)/泉岳寺前児童遊園=高輪接遇所跡(門前)
  • 山門・中門:山門は天保三年の再建で現存。港区登録有形文化財です
▶ 姉妹サイト「日本の歴史ガイド」で読む

赤穂浪士の討ち入りをわかりやすく解説:あの段だら模様は、七十年後に生まれた

討ち入りそのものの記事です。段だら模様がいつ生まれたのかを追っています。

▶ この史跡をめぐる旅(日本の歴史旅ガイド)

【実録】残された人が建てた墓 ― 泉岳寺の四十七士から板橋の近藤勇、そしてスカイツリーへ

泉岳寺の四十七士の墓から板橋の近藤勇まで。都営線一日券で歩いた一日です。

あわせて読みたい(現地取材)

この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 江戸東京博物館

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次