結論から書きます。土浦藩は、薩長土肥のような全国区の志士を輩出していません。
ですが、京都を追われた月照と西郷隆盛が身を寄せた家の主は、土浦藩士でした。

この城から、幕末はどう見えるか
土浦城は土屋家九万五千石の居城として、幕末まで現役でした。そして幕末史とは、四つの点でつながっています。
- 藩主が水戸と血でつながっていました。十代・土屋寅直は徳川斉昭の従弟。そして最後の藩主・土屋挙直は、斉昭の十七男です
- 天狗党が、すぐそこで挙兵しました。筑波山は土浦の北。城下に近い真鍋宿が焼かれ、栗原には土浦藩が討伐した十九人を供養する天狗塚があります
- 大久保要。藩校の館頭を務めた藩士で、戊午の密勅の内達を受け、大坂の自宅を月照と西郷隆盛の逗留所として提供しました。安政の大獄で処分され、土浦で病没しています
- 佐久良東雄。真鍋で大久保要らと交わった志士です。桜田門外の変の水戸浪士を匿った罪で捕らえられ、獄死しました
亀城——水に浮かぶ亀

案内板によれば、土浦城は霞ヶ浦の西岸、桜川河口の低地に築かれた平城です。別名を亀城(きじょう)といいます。度重なる水害でも水没せず、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことに由来するそうです。
本丸・二の丸を中心に三の丸・外丸と区画され、幾重にも巡る堀に囲まれていました。城下は南北に走る水戸街道を軸に町割が整備されています。

案内板が特筆しているのは防御施設でした。水戸街道沿いの南門と北門に馬出しという大規模な施設を設けているのは、全国でも珍しい事例である、と。
平成二十九年(2017年)、続日本100名城に選定されています。
関東で唯一、江戸期の櫓門が残っている

本丸の正面に立つのが太鼓門、いわゆる櫓門です。明暦二年(1656年)、五代城主・朽木稙綱が瓦葺入母屋造りの櫓門に改築したもので、そのまま現存しています。
関東の城で江戸期の櫓門が残っているのはここだけ、とされます(表現は資料によって幅があり、「本丸に残る櫓門としては関東唯一」「城郭建築の遺構としては関東地方唯一」などと書かれます)。いずれにせよ、めったにないものです。
くぐると、木の太さと黒さがまるで違います。水戸城の大手門は令和二年の復元、高田城の三階櫓は平成の復元でした。ここだけが本物です。

ほかに裏門にあたる霞門(天和から貞享のころの改築とされます)、移築された旧前川口門が現存しています。西櫓と東櫓は平成に木造で復元されました。

訪ねたのは桜の季節で、櫓の下に提灯が並び、大判焼きの屋台が湯気を上げていました。城跡が公園として使われているのは全国どこでも同じですが、ここは市街地のど真ん中にあるぶん、暮らしとの距離が近いように感じます。
水戸と血でつながっていた藩

幕末の藩主・土屋寅直(文政三年生、明治二十八年没)は、天保九年から慶応四年まで三十年にわたって土浦九万五千石を治めました。
この人は水戸藩の徳川斉昭の従弟にあたります。斉昭の藩政改革を模範として自藩の改革を進め、安政五年の大坂・兵庫開港には反対しました。
そして跡を継いだ最後の藩主・土屋挙直は、徳川斉昭の十七男です。寅直の養子として慶応四年五月に家督を継ぎました。
従弟であり、養子の実父でもある。土浦と水戸は、これ以上ないほど濃くつながっていました。それが幕末のこの藩の身の処し方を難しくします。
天狗党が、すぐそこで挙兵した
元治元年(1864年)三月、筑波山で天狗党が挙兵します。土浦から北へすぐの山です。
幕府は近隣諸藩に鎮圧を命じました。ですが土屋寅直は、その鎮圧に消極的な立場に終始したと記録されています。従弟の子が水戸藩主であり、養子に迎えた挙直の実父が斉昭です。討てと言われて、素直に討てる相手ではありませんでした。
それでも城下は無事では済みませんでした。元治元年六月二十一日、天狗党の別働隊を率いる田中愿蔵が、資金の供出を断った真鍋宿——いまの土浦市内に火を放ち、略奪と殺戮を行っています。
そして土浦市の栗原地区には、土浦藩によって討伐された十九人を供養した「天狗塚」が残っています。消極的だったとはいえ、藩は実際に人を斬っているのです。
この土地で天狗党が何をし、何をされたか。小田城跡から筑波山へで挙兵の側から、小山城で追った側から、そして水戸城と弘道館で震源地から書いてきましたが、土浦は巻き込まれた側です。
西郷隆盛と月照を匿った、土浦の藩士
さて、勤皇の志士です。
大久保要(おおくぼ かなめ)。代々土浦藩に仕える家に生まれ、天保八年(1837年)に藩校郁文館の館頭に就きました。学問の責任者です。
嘉永三年、藩主・寅直が大坂城代に任じられると、要は公用人として大坂へ随行します。この配置が、彼を幕末史のど真ん中に置くことになりました。
安政五年(1858年)八月、要は薩摩藩士・有馬新七から戊午の密勅の内達を受けます。水戸藩に下された、あの勅です。
そして同じころ——安政の大獄が始まり、勤皇僧・月照が京都を出奔しました。薩摩へ逃れる海路を待つあいだ、月照と、彼を守っていた西郷隆盛が身を寄せた先が、大坂の大久保要の自宅でした。
その後の顛末は知られているとおりです。二人は薩摩へ渡りましたが、薩摩藩は月照の保護を拒み、錦江湾で二人は身を投げました。月照は死に、西郷だけが生き延びます。
そして大久保要も無事では済みませんでした。安政六年十月、安政の大獄で「国元永押込」に処せられ、そのまま土浦藩内で病没しています。
維新の十年前です。この人が生きて明治を迎えていたら、名前の残り方は違っていたでしょう。
桜田門外の実行者を匿って、獄死した男
もう一人います。佐久良東雄(さくら あずまお)。文化八年生まれ、常陸国新治郡浦須村の郷士の長男です。
真鍋村——土浦に移り住んだ時代に、色川三中と大久保要と交友を結びました。のち各地で尊王論を説き、京都で皇学を教えています。
そして万延元年(1860年)、桜田門外の変に加わった水戸浪士・高橋多一郎を匿った罪で逮捕され、獄中で病死しました。享年五十。
彼の墓の隣には、大久保要の墓があります。水戸の常磐共有墓地で桜田門外の実行隊長・関鉄之介の墓を見ましたが、その事件の余波は土浦にも及んでいたのです。
三人目として名を挙げるなら色川三中でしょう。土浦の薬種商にして醤油製造業者、そして国学者です。天保五年に平田篤胤、天保七年に橘守部に入門し、古典と古文書の研究に生涯を費やしました。安政二年に没しているので、幕末の動乱そのものは見ていません。大正期に正五位を追贈されています。
歴史の主役の、すぐ隣

「土浦に有名な勤皇の志士はいなかったのか」——歩きながら考えていたのは、そのことでした。
答えは、いなかった、です。志士のデータベースを引いても土浦藩の登録はゼロに近い。西郷や高杉や坂本のような、教科書に載る名前は出ていません。
ですが、西郷と月照が最後に身を寄せた家の主は土浦藩士でした。桜田門外の実行者を匿って死んだ男は、この町で友を得ました。戊午の密勅の内達を受けたのも、土浦藩の学者です。
幕末史というのは、名前の残った数十人だけでできているわけではありません。宿を貸した人、金を出した人、匿った人、そして黙って処分を受けた人が、その何十倍もいます。土浦はそういう人を出した町です。

関東で唯一残った櫓門をくぐりながら、そう思いました。この門は、大久保要も佐久良東雄も、当たり前にくぐっていたはずです。
【土浦城・場所・アクセス・地図】
土浦城跡(亀城公園)は茨城県土浦市中央一丁目。JR常磐線・土浦駅から西へ徒歩十五分ほどです。茨城県指定史跡(昭和二十七年指定)で、公園は無料で歩けます。
本丸の太鼓門、裏門の霞門、旧前川口門が現存し、西櫓・東櫓と本丸土塁が復元されています。東櫓は土浦市立博物館の付属展示館として内部が公開されています(博物館との共通券あり)。桜の名所で、四月には城址が提灯で飾られます。
あわせて読みたい(現地取材)
この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「土浦城跡および櫓門」
- 土浦市立博物館
掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

