水戸の墓地には、幕末が並んでいます。
桜田門外の変で井伊直弼を討った男の墓。斉昭を支えて安政の大地震で死んだ男の墓。天狗党を率いて敦賀で斬られた男の墓。そして——討たれた井伊直弼を弔う塔。

この墓地から、幕末はどう見えるか
水戸城と弘道館を歩いたあと、城下の墓地を回りました。水戸藩が幕末に何を失ったのかは、城よりもこちらのほうがはっきり分かります。
- 関鉄之介——桜田門外の変の実行隊長。逃亡の末に捕らえられ、小伝馬町で斬首されました
- 藤田東湖——斉昭の側用人。安政の大地震で圧死。彼が生きていれば水戸は割れなかったと言われ続ける人です
- 武田耕雲斎——天狗党を率いて京を目指し、敦賀で三百四十余名とともに斬られました
- そして井伊直弼の台霊塚——討った側の町に、討たれた側を弔う塔が立っています
常磐共有墓地——光圀が作った、寺に属さない墓地

案内板によれば、この墓地は寛文六年四月(1666年)、水戸徳川家第二代藩主・徳川光圀が家臣に賜ったものだそうです。
面白いのは、その成り立ちです。光圀は『大日本史』の編纂を通じて皇道精神の発揚と水戸教学の源流を開いた人ですが、藩政においては神仏習合を禁じて寺社の改革を断行し、仏式の葬礼を廃しました。そのうえで家臣に自葬祭を勧め、『喪祭儀略』を編集して、葬祭の作法と墓石の大きさや形までを規定しています。
この墓地は、その改革の一環です。特定の寺院に属さない、諸宗共有の墓地。以来三百六十年、この形が守られてきました。
案内板の上段には、ここに葬られた先賢志士の一覧が掲げられていました。数十名の名が、位階とともに並んでいます。幕末に死んだ水戸の人間の名簿です。
関鉄之介——桜田門外の変を指揮した男
安政七年三月三日(1860年3月24日)の朝、江戸城桜田門外で大老・井伊直弼の行列が襲われました。この襲撃を現場で指揮したのが関鉄之介です。
事件後の逃避行が長いのです。薩摩へ、近畿へ、四国へと転々とし、水戸領の袋田(現在の大子町)に潜伏し、さらに越後へ逃れて湯沢温泉で捕らえられました。文久二年五月十一日(1862年6月8日)、日本橋小伝馬町の牢で斬首。享年三十九。
いま標柱には「贈従四位」とあります。維新後、この人は罪人から功臣に読み替えられました。彦根城を歩いたときに、井伊直弼が埋木舎で十五年を過ごした部屋を見ています。討った側と討たれた側の両方の場所に立ってみると、桜田門外の変というのは、ずいぶん近い距離で起きた事件だったのだと思います。
藤田東湖の墓——ここにも眠っている

墓地を歩いていると、案内板の足元に手作りの道標が出ていました。「藤田東湖の墓 この先50M」「関鉄之助の墓 40M」。矢印が二つ、別の方向を指しています。
藤田東湖は安政二年の大地震で圧死しました。享年五十。桜田門外の変の五年前です。関鉄之介はその桜田門外で指揮を執り、二年後に斬られました。五十メートルと四十メートル。二人の墓は、そのくらいの距離にあります。
東湖の生誕地は水戸城の城下に残っていて、産湯の井戸跡まであります。生まれた場所と葬られた場所が、同じ町の中に両方あるというのは、考えてみると珍しいことです。
安積澹泊——「格さん」の墓もここにある

幕末からは離れますが、同じ墓地に安積澹泊が眠っています。案内板は「水戸黄門漫遊記の『格さん』こと」と紹介していました。
明暦二年(1656年)水戸生まれ、元文二年(1734年)没、享年八十二。名は覚。朱舜水に学び、三十八歳で史館総裁となり、没年に至るまで『大日本史』紀伝の編集・校訂に力を尽くした——と書かれています。恭謙な人柄で知られ、菊を愛し、勤勉博識で多くの著述を残した、とも。
ドラマの「格さん」は創作ですが、この人が実在の人物であり、『大日本史』の編纂に生涯を捧げた学者だったことは知っておいていいと思います。その『大日本史』が水戸学を生み、水戸学が尊王思想となって、百年後にこの墓地の隣人たちを死なせました。

武田耕雲斎の墓——「水戸藩の悲運ここに極まった」


この案内板の文章がすばらしいので、要点をたどります。
耕雲斎は一八〇四年(文化元年)水戸藩の旧家に生まれ、名を正生といいました。藩主・斉昭の新政に際して要職にあってその達成に努めましたが、戸田・藤田両巨頭の没後は藩の重鎮として尊皇攘夷の運動を進めたとあります。
しかし、勅諚問題・安政の大獄・桜田事変、また斉昭の死去と、非常の事態が相次いで起こるにつれて藩の動揺分裂が激しくなり、一八六四年(元治元年)の春には藤田小四郎らが筑波山に兵を挙げるに至りました。
はじめは小四郎に自重をすすめた耕雲斎も、幕府諸藩の攻勢が強まると、同情に耐えかねてともに戦い、ついには那珂湊の戦場から小四郎ら約一千名を率いて京に上り、朝廷に志を訴えようとします。
しかし一行は幕藩の兵に阻止され、飢寒に悩まされて加賀藩に降伏し、一八六五年(元治二年)二月四日、敦賀において幕府のために三百四十余名の同志とともに断罪に処せられた。耕雲斎 時に六十三才、水戸藩の悲運ここに極まったのである。
案内板がこう締めくくっています。「水戸藩の悲運ここに極まった」——行政の設置した説明板でここまで書くのかと、しばらく立ち止まりました。
敦賀で斬られた三百五十余名の墓は、いまも敦賀にあります。そして耕雲斎の墓は、水戸のこの寺にあります。小山城を歩いたとき、天狗党を追い、敦賀で処刑した側——相良藩主・田沼意尊のことを書きました。追った側の城と、追われた側の墓。両方に立ってみて、ようやくこの事件の形が見えた気がします。
そして、井伊直弼を弔う塔

いちばん驚いたのがこれでした。
水戸に、井伊直弼を弔う塔が立っています。
桜田門外で井伊を討ったのは水戸の浪士たちです。その関鉄之介の墓が、同じ町にあります。それでいて、討たれた井伊直弼のための台霊塚がここにあるのです。
いつ、誰が建てたのかは標柱からは分かりません。ただ、彦根藩と水戸のあいだで戦後にどんなやりとりがあったかを考えると、この一本の柱の意味は重いと思います。彦根城では、井伊直弼が不遇の十五年を過ごした埋木舎を見ました。あの人を殺した町に、あの人の霊を祀る場所があるのです。
幕末の恨みは、どこかで解かれなければならなかったのでしょう。恨みを解くというのは、たぶんこういう形をとります。石を一本立てて、名前を刻んで、そこに置いておく。それだけのことですが、それを水戸の人間がやったという事実が残ります。
【常磐共有墓地・場所・アクセス・地図】
常磐共有墓地は茨城県水戸市松本町。JR水戸駅からバスで十分ほど、弘道館からは北西へ二キロほどの丘の上にあります。水戸市指定史跡です。
墓域は広く、藤田東湖・関鉄之介・安積澹泊らの墓には手作りの道標が出ています。入口の案内板に葬られた先賢志士の一覧があるので、先に読んでおくと迷いにくいと思います。武田耕雲斎の墓は妙雲寺にあり、こちらは別の場所になります。
墓地ですから、静かに歩きたいところです。いまも使われている現役の墓地です。
あわせて読みたい(現地取材)
この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「彦根城主 大老 井伊掃部頭直弼台霊塚」
掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。
