【現地取材】高田城址を歩く——藩は官軍、脱藩した家臣は賊軍。芸州口で壊滅した榊原十五万石

堀の向こうに、黒い三層の建物が建っています。天守閣ではありません。高田城に天守はありませんでした。

堀越しに見る三重櫓。高田城には天守がなく、この櫓が城のシンボルだった。
堀越しに見る三重櫓。高田城には天守がなく、この櫓が城のシンボルだった。
目次

この城から、幕末はどう見えるか

高田城は幕末まで現役の城です。榊原家十五万石の居城として、そのまま明治を迎えました。そしてこの城の幕末は、ほかのどこの藩とも違う形をしています。

  • 第二次長州征討で、彦根藩と並んで先鋒を務め、壊滅しました。慶応二年六月、芸州口の小瀬川です
  • 戊辰戦争では新政府側につきました。高田には新政府軍の本営が置かれています
  • ところが江戸詰の藩士たちは、脱藩して旧幕府側で戦いました。神木隊です。上野戦争、宮古湾海戦、そして箱館まで
  • 戦後、会津の降伏人千七百四十二人がこの町へ送られてきました。寺町の五十五か寺に幽閉されています

藩は官軍、家臣は賊軍、そして町には敗者が押し込められた。順に見ていきます。

天守を造らなかった城

高田城本丸の案内板。縄張図と、明治四十一年の陸軍師団用地への改造図が並ぶ。
高田城本丸の案内板。縄張図と、明治四十一年の陸軍師団用地への改造図が並ぶ。

現地の案内板によれば、高田城が築かれたのは慶長十九年(1614年)。徳川家康の六男・松平忠輝が、高田の菩提が原(ぼだいがはら)を主郭として築いた七十五万石(諸説あり)の大規模な近世城郭です。

面白いのは造りです。石をほとんど用いていません。本丸は内堀(薬研堀)と土塁に囲まれ、現状で堀幅四十〜五十メートル、平均水深五メートル、土塁は高さ十メートル前後で総長およそ一千メートル。石を使ったのは二か所の内枡形門と一か所の内カギ形門だけで、あとは土です。

そして天守閣を造りませんでした。代わりに土塁の南西隅に建てた三重の矢倉を「御三階」と呼び、城のシンボルとしています。いま堀の向こうに見えている黒い建物が、その復元です。

「史跡 本丸跡」の石柱。本丸内郭は東西二百十五メートル、南北二百二十八メートルあった。
「史跡 本丸跡」の石柱。本丸内郭は東西二百十五メートル、南北二百二十八メートルあった。

この城は災害に痛めつけられ続けました。寛文五年(1665年)の高田地震、宝暦地震(1751年)、享和二年(1802年)の火災、善光寺地震(1847年)。そのたびに規模が縮小され、そして明治三年(1870年)の火災で焼失し、以後再建されませんでした。

慶長十九年から明治四年まで二百五十七年、八家十八代の城主が交替しています。

城主の一覧に、臼井から来た男がいる

「松平光長公時代之高田城繪圖」。左上に歴代藩主の一覧表が添えられている。
「松平光長公時代之高田城繪圖」。左上に歴代藩主の一覧表が添えられている。

絵図の脇に、高田藩歴代藩主の一覧表が掲げられていました。書き写すとこうなります。

大名 石高 藩主となった年 在封
松平忠輝 六十万石 慶長15年 6年
酒井家次 十万石 元和2年 2年
松平忠昌 二十五万石 元和4年 6年
松平光長 二十五万七千石 寛永元年 57年
稲葉正通 十万三千石 貞享2年 16年
戸田忠真 六万八千石 元禄14年 9年
久松松平家 十一万石 宝永7年 31年
榊原家 十五万石 寛保元年 130年

目が留まったのは二人目、酒井家次です。徳川四天王の筆頭・酒井忠次の嫡子で、この人はもともと下総臼井藩三万石の主でした。臼井から上野高崎へ、そして越後高田十万石へ。関東の小藩から、雪国の大城へ移された人です。ちなみに臼井藩はこの移封とともに廃藩になり、幕末には城も藩もなくなっています。

初代の松平忠輝は家康の六男でありながら、大坂の陣ののちに改易されました。以後、高田は親藩と譜代が入れ替わり続けます。腰を落ち着けたのは八家目の榊原家で、寛保元年から百三十年、幕末までここにいました。

芸州口——彦根と高田が、並んで壊滅した

慶応二年(1866年)、第二次長州征討。高田藩は彦根藩とともに、芸州口の先鋒を命じられます。

六月十三日、小瀬川で戦端が開かれました。結果は惨敗です。両藩とも壊滅し、潰走します。敗因は旧式の軍装だったとされます。かわりに幕府歩兵隊と紀州藩兵が入って、かろうじて戦線を維持しました。

この一戦の意味は重いと思います。井伊の赤備えと榊原の兵——徳川四天王の家が二つ並んで、長州の近代化された部隊に破られたのです。二百六十年前に天下を取った軍隊の直系が、装備の古さだけで押し潰されました。

幕府がフランス式の軍制改革へ突き進んでいくのは、この直後です。彦根城を歩いたとき、井伊の赤備えが二年後には官軍として東へ進んでいく話を書きました。その赤備えは、その前にここで一度、完膚なきまでに敗れていたのです。

藩は官軍、家臣は賊軍

慶応四年正月二十四日、高田藩の重臣会議は方針を決めました。天皇への忠勤を誓い、あわせて徳川慶喜の赦免を要請する——という、二つを同時に立てる決定です。二月三日に北陸道鎮撫総督から勅書が届き、五日に請書を出しました。

ただし新政府の信用はすぐには得られませんでした。四月に越後へ入った旧幕府の古屋作左衛門隊を砲撃したにもかかわらず、動きが不審だとして、閏四月八日の新井会議では高田藩の武力討伐まで協議されています。藩は謝罪し、以後は先鋒を務めると誓約しました。そして高田に新政府軍の本営が置かれます。

この「藩の判断」に、江戸にいた家臣たちが従いませんでした。

神木隊——榊の字を分けた名前

慶応四年、江戸詰の高田藩士たちが脱藩し、江戸で一隊を結成します。神木隊(しんぼくたい)。中心は隊長・酒井良佐と渡辺千之助でした。

隊名の由来がいいのです。主家である榊原家の「榊」の字を、「神」と「木」に分けたものとされます。主家の名を背負ったまま、主家の決定に背いた部隊です。忠義の示し方が、藩と家臣とで正反対に出ました。

神木隊は五月、彰義隊に合流して上野戦争を戦い、敗れます。そこから先が長いのです。

明治二年三月二十五日、宮古湾海戦。旧幕府軍が新政府の装甲艦甲鉄艦を奪い取ろうとした、あの作戦です。回天丸に乗り込んだ斬込隊およそ百名のなかに、神木隊がいました。彼らは外輪船の艦首から飛び降り、ガトリング砲の掃射を浴びています。

この斬込隊に、のちに浮世絵師となる楊洲周延(本名・橋本直義)がいました。周延は重傷を負っています。そして生き延び、箱館まで戦い抜きました。

明治二年に降伏したあと、周延は八月に鳳凰丸で東京へ送られ、高田藩預かりとなります。兵部省から禁錮五十日、藩からは家禄半知・降格・隠居といった処分を受けました。

主家の名を分けた名前を掲げて主家に背き、負けて、最後は主家に引き渡された。豊島区南池袋の本立寺に「神木隊戊辰戦死之碑」が立っています。

会津の降伏人、千七百四十二人

そしてこの町には、もうひとつの幕末があります。

明治二年一月十七日から二十七日にかけて、六隊に分かれて千七百四十二人が高田に到着しました。会津藩の降伏人です。彼らは寺町の五十五か寺に分けて幽閉されました。善導寺に監視の会議所が置かれ、来迎寺が病院にあてられています。

明治三年六月に斗南藩へ引き渡されるまで、およそ一年半。その間に六十七人が病死しました。

待遇については、資料の書きぶりが分かれています。藩の記録をもとにした説明では、藩庫から費用を補填し、炊事場や浴場、生活用品、医師まで手配したとされます。一方で、病死者の多さから待遇が行き届かなかったのではないかとする見方もあります。どちらが実態に近いのかは、ここでは断定できません。

市の南にある金谷山には、いま二つの墓地があります。北東部に会津墓地——病死した六十七人と、その後この地に残った人々の墓が三十余基。そして南東部に官軍墓地。薩摩六十四、長州五十五、豊浦十六、親兵三、そして高田藩五十七人が葬られています。

同じ山に、会津の墓と官軍の墓があります。そして官軍側の墓のなかに、この土地の藩士が五十七人います。芸州口で幕府方として壊滅した藩が、二年後には官軍として人を死なせました。高田の幕末は、その振れ幅がそのまま墓の配置になっています。

陸軍が削り、あじさいが埋めた

復元された極楽橋。堀を渡って本丸へ入る、城の正面にあたる橋である。
復元された極楽橋。堀を渡って本丸へ入る、城の正面にあたる橋である。

明治四年に藩が消えたあとも、この城跡には軍隊が入り続けました。明治四十一年(1908年)、陸軍第十三師団が入城します。このとき土塁が切り崩され、城跡の形はかなり変わってしまいました。案内板に「明治四十一年の陸軍師団用地への改造図」がわざわざ添えられているのは、そのためです。

それでも基本的な原形は保たれ、いまは新潟県の史跡に指定されています。堀は当時のまま水をたたえていて、幅も水深も築城時からそれほど変わっていません。

極楽橋の上。橋も三重櫓も平成の再建だが、堀と土塁は江戸のままである。
極楽橋の上。橋も三重櫓も平成の再建だが、堀と土塁は江戸のままである。
三重櫓へ上がる石段。あじさいの季節だった。閉館時刻の案内板が出ている。
三重櫓へ上がる石段。あじさいの季節だった。閉館時刻の案内板が出ている。

三重櫓へ上がる石段の両脇に、あじさいが咲いていました。青と紫が石段の縁を埋めています。高田といえば桜——日本三大夜桜のひとつですが、この季節はあじさいです。訪ねた日は曇り空で、黒い櫓と濃い緑と、青いあじさいの取り合わせがちょうどよく感じられました。

三重櫓の下で。天守ではなく櫓だが、この城ではこれがシンボルだった。
三重櫓の下で。天守ではなく櫓だが、この城ではこれがシンボルだった。
三重櫓を正面から。石垣は用いず、土塁の上に直に建っている。
三重櫓を正面から。石垣は用いず、土塁の上に直に建っている。

間近で見ると、この建物が石垣の上ではなく土塁の上に直接建っていることがよく分かります。全国の城を歩いていると、石垣の上に建つ櫓ばかり見慣れてしまいますが、高田は違います。石が採れない土地の城は、こういう形になるのです。関東の真壁城児山城が土塁と堀だけで城を作っていたのと、発想は地続きです。

堀端のツツジと三重櫓。堀の水は江戸のままである。
堀端のツツジと三重櫓。堀の水は江戸のままである。

歩きながら考えていたのは、この城の主たちの振れ幅のことでした。家康の六男が築き、改易され、酒井家次が臼井から来て、松平光長が五十七年いて、最後は榊原家が百三十年。そして幕末には、藩が官軍で家臣が賊軍になりました。

天守を持たなかった城ですから、遠くから見て「ああ城だ」と分かる目印は三重櫓しかありません。それも一度は焼けて、平成に建て直されたものです。残っているのは堀と土塁——つまり土だけです。土は焼けませんし、地震でも形を変えません。この城でいちばん古いものは、いちばん地味なものでした。

【高田城址・場所・アクセス・地図】

高田城址公園は新潟県上越市本城町。えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン・高田駅から東へ徒歩十五分ほどです。園内は無料で歩けますが、三重櫓の内部は有料(一般三百十円)で、開館は午前九時から午後五時、月曜休館です。

本丸跡の石柱と案内板、極楽橋、三重櫓は続けて回れます。堀は一周できるので、ぐるりと歩けば築城時の規模が体感できます。四月の夜桜、六月のあじさい、七月からは外堀を埋める蓮が知られています。会津降伏人の墓がある金谷山は、城址から南へ車で十分ほどの場所にあります。

この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説板・碑文の記載をもとに書いています。史実にあたる部分は、あわせて公開されている文献資料で確認しています。

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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