【現地取材】掛川城を歩く——幕末に天守は無かった。井伊直弼が据え、そして切った老中の城

夏空と雲を背にした掛川城天守

静岡県掛川城。山内一豊の城として知られ、天守がそびえる、いかにも「お城」らしいお城です。

ところが幕末を軸に見ると、この城はまったく違う顔を見せてきます。幕末の掛川城に天守はありません。そしてこの城の主は、井伊直弼が老中に据え、そして一年で切った男でした。

掛川城大手門。手前の標柱に「掛川城大手門」とある。まずここから城内へ入る
掛川城大手門。手前の標柱に「掛川城大手門」とある。まずここから城内へ入る
目次

まず、いま建っている天守について

大手門を正面から。門をくぐると、そのまま城下の通りへ抜ける
大手門を正面から。門をくぐると、そのまま城下の通りへ抜ける
丘の上にそびえる天守。この姿は平成の復元である
丘の上にそびえる天守。この姿は平成の復元である

先に整理しておきます。掛川城は天正十八年(1590)、豊臣秀吉の命で山内一豊が入城し、戦乱で傷んだ城を大改築して城下町まで整えた城です。江戸時代は徳川譜代の大名が城主をつとめ、最後は太田道灌の子孫にあたる太田氏が明治維新まで治めました。

そしていま建っている天守は、平成六年(1994)四月に復元されたもの。樹齢三百年を超える青森ヒバを使い、高知城を参考にした、日本初の本格木造復元天守です。工費は十億五千万円。

石垣ぎわから天守を見上げる。木造復元だけあって、細部の造りが素直に美しい
石垣ぎわから天守を見上げる。木造復元だけあって、細部の造りが素直に美しい

木造だと知ってから見上げると、確かに違います。壁の白さや軒の反りに、コンクリート造の復興天守にはない素直さがある。訪ねたときはちょうど木造復元三十周年にあたっていて、記念の展示が出ていました。

「30」の文字が掲げられた木造復元三十周年の記念展示。甲冑が飾られていた
「30」の文字が掲げられた木造復元三十周年の記念展示。甲冑が飾られていた

幕末の掛川城に、天守は無かった

ここが今回いちばん書いておきたい事実です。

安政元年(1854)末の安政東海地震。この地震で、掛川城は天守を含む大半の建物が倒壊しました。そして天守は、ついに再建されませんでした。

ペリーが来航したのが前年の嘉永六年。つまり黒船から明治維新までの十四年間、掛川城は天守のない城だったということになります。私たちが写真に撮って喜んでいるあの天守は、幕末の掛川を訪れた人は誰も見ていない建物なのです。

同じ地震は沼津城も損傷させています。東海道沿いの城が、開国前夜に一斉に揺さぶられた。海の向こうから黒船が来る前に、足もとの地面のほうが先に崩れていたわけです。

ただし、再建されたものが一つだけある

倒れたまま終わったわけではありません。二ノ丸御殿だけは、文久元年(1861)までに再建されました。

そしてこの御殿が、いまも建っています。昭和五十五年(1980)に国の重要文化財に指定され、現存する数少ない城郭御殿建築のひとつに数えられています。

つまり掛川城には、幕末に建てられた本物の建物が残っているのです。天守は平成の復元、御殿は文久の実物。順序がひっくり返っているのが面白いところで、城として派手なのは新しいほう、幕末歴史ガイドとして本当に見るべきなのは地味なほう、ということになります。

正直に白状すると、私はこの日、御殿をきちんと見ていません。天守に登って満足してしまった。あとから「文久元年再建の現存御殿」と知って、いちばん悔しかったのがここでした。次に行くときの宿題です。

太田資始 ― 井伊直弼が据え、井伊直弼が切った老中

天守の窓から城下を見下ろす。幕末の藩主はこの高さを持たなかった
天守の窓から城下を見下ろす。幕末の藩主はこの高さを持たなかった
天守からの眺望。掛川の市街が一望できる
天守からの眺望。掛川の市街が一望できる

幕末の掛川藩を語るなら、この人を外せません。太田資始(おおた すけもと)。文化七年(1810)八月十一日に掛川藩主を継いだ人物です。

驚くのは、この人が老中を三度つとめていることです。

一度目は天保五年(1834)。水野忠邦のもとで幕政に加わりますが、天保十二年(1841)六月に罷免され、隠居します。天保の改革がまさに始まろうという時期の失脚でした。

ここで終わっていれば、地方の譜代大名の一人として片づく話です。ところが十七年後、彼は呼び戻されます。

安政五年、なぜ資始が呼び戻されたのか

安政五年(1858)、資始は老中に再任されます。そしてこの人事の背景が、幕末史そのものです。

日米修好通商条約の勅許問題と将軍継嗣問題で幕府が割れたとき、大老・井伊直弼堀田正睦と松平忠固を罷免し、代わりに資始らを老中に起用しました。

ここで佐倉城とつながります。開国派の中心として奔走し、勅許を得られずに敗れた堀田正睦——その後任として座ったのが、掛川の太田資始だったのです。佐倉で見た「開国に敗れた宰相」の物語は、掛川で続きを迎えます。

そして一年で切られる

ところが資始は、直弼の思い通りには動きませんでした。

資始と直弼は、尊王倒幕の志士たちの弾圧をめぐって意見が対立します。そして翌安政六年(1859)、資始は罷免されました。

安政六年といえば、安政の大獄がもっとも激しかった年です。吉田松陰が刑死したのもこの年。その弾圧のやり方に異を唱えて、老中の座を追われた人間がいた。しかも直弼自身が据えた老中が、です。

資始はその後、文久三年(1863)に三度目の老中に就きますが、在職わずか一か月で辞職しています。それでも幕府は、老練な彼をもう一度老中に迎えようとし続け、話がまとまらないうちに彼は世を去りました。

三度就いて、三度とも短い。据えられては切られ、呼ばれては辞める。幕府の末期がどれほど不安定だったかが、一人の人事の履歴だけで伝わってきます。

最後の藩主は、房総で星形の要塞を造ろうとした

石垣と水堀。城の骨格は、天守が無かった時代もこのまま残っていた
石垣と水堀。城の骨格は、天守が無かった時代もこのまま残っていた

掛川藩の最後の藩主は太田資美(すけよし)です。そして彼の運命は、沼津藩の水野家とまったく同じでした。

大政奉還と戊辰戦争の結果、徳川宗家は駿府藩(静岡藩)七十万石へ移されます。その場所を空けるため、駿河・遠江の譜代大名はまとめて房総へ追い出されました。沼津の水野家は上総菊間へ。そして掛川の太田家は、上総国柴山(松尾)へ転封

面白いのはその先です。移された松尾藩で、太田資美は西洋稜堡式の要塞を築こうとしました。星形の、あの五稜郭と同じ様式の城です。

ところが築城の途中で廃藩置県を迎え、工事は中断されました。先祖代々の城を失って房総へ流された大名が、新天地で最新式の要塞を造り始め、そして「藩」という制度そのものが消えて工事が止まる。日本の城の歴史の、いちばん最後の一コマだと思います。

信州の龍岡城五稜郭を歩いたときにも同じことを感じましたが、幕末の大名たちは本気で「これからの城」を造ろうとしていました。間に合わなかっただけです。

歩いてみて

夏空と雲を背にした天守。この姿を、幕末の掛川の人は誰も見ていない
夏空と雲を背にした天守。この姿を、幕末の掛川の人は誰も見ていない

掛川城は、来る前と後でいちばん印象が変わった城でした。

行く前は「山内一豊の城、木造復元の天守」でした。帰ってから調べると、幕末には天守が無く、御殿だけが文久元年に建て直され、その城の主は井伊直弼に据えられて大獄をめぐって切られた老中で、最後の藩主は房総で星形要塞を造ろうとしていた。同じ城の、まるで別の顔です。

天守に登って城下を見下ろしたとき、私は当然のように「殿様もこの景色を見たんだろう」と思っていました。でも幕末の藩主は、この高さを持っていなかった。地震で天守を失ったまま、御殿から城下を見ていたはずです。そう気づいたときの、足もとが少しずれるような感覚が、この日いちばんの収穫でした。

復元天守を「本物じゃない」と言う人もいます。でも掛川の場合、復元されたことで「幕末には無かった」という事実のほうが際立つ。それはそれで、城跡の面白さだと思います。

アクセスと地図

天守最上階の窓。木の枠ごしに掛川の町が広がる
天守最上階の窓。木の枠ごしに掛川の町が広がる

掛川城/静岡県掛川市掛川。JR掛川駅から徒歩約七分と、新幹線を降りてすぐ歩ける城です。天守と二の丸御殿は共通券で見学できます。御殿は必ず入ってください——文久元年再建の現存建築で、掛川城でいちばん幕末に近い場所です(私はここで失敗しました)。大手門は市街地側にあり、天守とは少し離れているので、駅から歩くなら先に大手門を見るのが順路として自然です。

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この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説板・碑文の記載をもとに書いています。史実にあたる部分は、あわせて公開されている文献資料で確認しています。

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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