【現地取材】横須賀を歩く——記念艦三笠と東郷平八郎、お龍の墓、そしてペリー上陸の浜

東郷平八郎の銅像 三笠の艦首前に立つ

都内から日帰りで、横須賀をまわりました。同行はおじさん友達三人組。記念艦三笠、坂本龍馬の妻・お龍の墓、そしてペリー上陸記念碑。ついでに昼は三浦のあたりで海鮮丼を食べた記憶があります。

回ってから気づいたのですが、この三か所は幕末という時代の「始まり」と「その後」を、たった一つの市内で結んでしまう取り合わせでした。ペリーが上陸した浜と、龍馬の妻が生涯を終えた寺と、幕末の海戦を戦った少年が四十年後に座乗した軍艦。順路の都合で時代を逆から辿ることになりましたが、そのぶん見え方が面白かったので、歩いた順のまま書きます。

目次

記念艦三笠 ― まず、この船の履歴書から

記念艦三笠。手前に「記念艦三笠の由来」の説明板と、大きな砲弾が置かれている
記念艦三笠。手前に「記念艦三笠の由来」の説明板と、大きな砲弾が置かれている

横須賀の三笠公園に、コンクリートに固定されて戦艦三笠が据えられています。艦首を皇居の方角に向けて、動かない船として。

履歴を並べておきます。三笠はイギリスのヴィッカース社バロー造船所で建造されました。明治三十二年(1899)一月に起工、明治三十三年十一月に進水、明治三十五年(1902)三月一日に竣工。排水量およそ一万五千トン、全長約一二二メートル、三〇センチ砲四門と一五センチ砲十四門を備え、速力十八ノット。当時の日本にとっては最新鋭の一等戦艦です。

そして明治三十七年(1904)二月に始まった日露戦争で連合艦隊の旗艦をつとめます。同年八月十日の黄海海戦では二十数発の被弾を受け、艦上で百十三名の死傷者を出しました。翌明治三十八年五月二十七日から二十八日の日本海海戦では、連合艦隊司令長官・東郷平八郎が座乗し、バルチック艦隊を迎え撃っています。

その後の道のりも波乱でした。大正十二年(1923)のワシントン軍縮条約で廃艦が決まって除籍、大正十四年に横須賀での保存が閣議決定され、大正十五年(1926)に記念艦としての保存式。ところが敗戦後は荒廃し、備品の盗難も相次ぎます。復元を後押ししたのは、意外にも元敵国でした。アメリカ海軍のニミッツ元帥が自著の印税の一部を寄付し、米海軍も支援に加わって、昭和三十四年に工事が始まり、昭和三十六年五月二十七日 ― 日本海海戦の記念日 ― に復元記念式が行われています。

東郷平八郎は、幕末の海戦を戦った少年だった

ここからが、幕末歴史ガイドとして書きたい本題です。

三笠の艦首前に立つ東郷平八郎の銅像。像も艦も同じ方角を向いている
三笠の艦首前に立つ東郷平八郎の銅像。像も艦も同じ方角を向いている
東郷平八郎の像を間近から。台座に刻まれた文字が海風にさらされている
東郷平八郎の像を間近から。台座に刻まれた文字が海風にさらされている

艦首の前に、東郷平八郎の銅像が立っています。日露戦争の英雄、という顔で語られることの多い人です。しかし彼の履歴を最初から見ていくと、まったく違う顔が出てきます。

東郷平八郎は弘化四年十二月二十二日(1848年1月27日)、薩摩国鹿児島の生まれ。父は薩摩藩士・東郷実友で、十四歳で元服して平八郎実良と名乗りました。初陣は文久三年(1863)の薩英戦争です。イギリス艦隊の砲撃を、鹿児島の側から受けた側にいた。のちにそのイギリスへ官費留学することになるのですから、人生というのはわからないものです。

そして戊辰戦争。東郷は薩摩藩の軍艦春日丸に乗り組み、新潟から箱館まで転戦しました。参加した戦いを並べると、幕末の海戦史そのものになります。

慶応四年一月四日 ― 日本史上初の、蒸気軍艦どうしの海戦

鳥羽・伏見の直後、慶応四年一月四日(1868年1月28日)。兵庫沖を出港した薩摩の艦隊を、旧幕府海軍の開陽丸が発見し、停船命令を出します。開陽丸を率いていたのは軍艦頭・榎本武揚

開陽丸は春日丸と翔凰丸を追撃し、計二十五発を撃ち込みました。対する春日丸も十八発を撃ち返しています。決定的な損害は双方に出ず、薩摩艦は逃走。運送船の翔凰丸は機関故障で自焼しました。これが阿波沖海戦 ― 日本史上はじめて、蒸気機関を備えた近代軍艦どうしが撃ち合った戦いです。

戦術的には旧幕府側の勝ちでしたが、結果として近畿の制海権は新政府側に移りました。そしてこのとき春日丸の甲板にいた二十歳の若者が、東郷平八郎です。

宮古湾、そして箱館へ

東郷はさらに宮古湾海戦にも加わっています。旧幕府軍が回天丸で新政府軍の甲鉄艦(東艦)に斬り込み、これを奪おうとした、あの無謀で鮮烈な作戦の、迎え撃つ側です。そして箱館戦争まで。

整理すると、こうなります。三笠の艦橋に立って日本海海戦を指揮した男は、その三十七年前、木と鉄の入りまじった軍艦の甲板で、同じ日本人と撃ち合っていた。

三笠は明治の船です。けれども東郷平八郎という人物を軸に見れば、この艦は幕末の軍艦たちの、まっすぐな延長線上にあります。開陽丸から三笠まで、たった四十年。日本の海軍がどれだけの速度で駆け抜けたか、この一人の履歴が語っています。

甲板を歩く

木甲板と主砲。手すりの向こうはもう海である
木甲板と主砲。手すりの向こうはもう海である
ずらりと並ぶ通風筒。石炭を焚く船の内部へ、ここから風を送り込んだ
ずらりと並ぶ通風筒。石炭を焚く船の内部へ、ここから風を送り込んだ

艦内に上がると、まず木甲板の感触に驚きます。板の目地がくっきり残っていて、鉄の軍艦なのに足の裏は木です。そして通風筒の多さ。石炭を焚いて走る船ですから、機関室に風を送り込む必要があった。この筒の一本一本が、缶室で汗を流していた人間の存在を語っています。

艦橋とマストを見上げる。ここに東郷が立ち、Z旗が掲げられた
艦橋とマストを見上げる。ここに東郷が立ち、Z旗が掲げられた
艦橋から艦首方向を見下ろす。手前の真鍮は伝声管
艦橋から艦首方向を見下ろす。手前の真鍮は伝声管

艦橋に上がって艦首を見下ろすと、意外なほど視界が低い。近代的な戦艦のイメージからすると、司令塔はずいぶん海に近いところにあります。手前に真鍮の伝声管が突き出していて、これで機関室や砲塔に声を通したのだと思うと、指揮というものが今よりずっと生身の作業だったことがわかります。

おじさん三人で「昔の船は狭いなあ」などと言いながら歩いていたのですが、この狭さこそが幕末から続く海軍の実物なのだと、あとから思いました。

信楽寺 ― 龍馬の妻は、横須賀で生涯を終えた

三笠公園から車で少し、大津の住宅地の高台に信楽寺(しんぎょうじ)があります。

信楽寺の山門。「南無阿彌陀佛」の石柱が門前に立つ
信楽寺の山門。「南無阿彌陀佛」の石柱が門前に立つ

説明板によれば、開山は永正元年(1504)と伝わる浄土宗の寺。本尊は運慶作と伝える阿弥陀如来で、三浦地蔵尊第二十七番札所でもあります。ごく普通の、静かな寺です。

ただしこの寺の墓地には、幕末の志士・坂本龍馬の妻、龍子(りょう)の墓があります。

信楽寺の説明板。「伝・おりょう」の写真が添えられていた
信楽寺の説明板。「伝・おりょう」の写真が添えられていた
「横須賀風物百選 坂本龍子の墓」の説明板。お龍の後半生が細かく記されている
「横須賀風物百選 坂本龍子の墓」の説明板。お龍の後半生が細かく記されている

この説明板が、驚くほど丁寧に彼女の生涯を追っていました。要点を拾います。

お龍は京都下京の医者・楢崎将作の長女。名は「りょう」ですが、寺田屋時代は「お春」、のちには「鞆(とも)」とも呼ばれました。伏見の寺田屋騒動では、彼女の機転が龍馬の危急を救っています

そして慶応三年(1867)十一月十五日。龍馬は河原町の近江屋で幕府見廻組の襲撃を受け、三十三歳で中岡慎太郎とともに斬殺されました。

ここから先が、あまり語られない後半生です。お龍は龍馬の遺言により土佐高知の坂本家に入りますが馴染めず、一年半後、妹の起美が嫁いだ土佐和食村の庄屋・千屋家の菅野覚兵衛のもとに身を寄せます。その後京都に戻り、さらに西郷隆盛を頼って東京へ移住。明治七年ごろには神奈川宿の料亭・田中家で仲居をしていました。

明治八年、豊島村深田(現在の深田台)に住む西村松兵衛と再婚し、「ツル」という名で入籍。そして明治三十九年(1906)一月十五日、深田三二一番地(現在の米が浜通)において六十六歳で死去。同月、田戸台の聖徳寺でささやかな葬儀が営まれ、荼毘に付されました。

墓碑が建ったのは、それから八年後です。大正三年(1914)八月、元陸援隊副隊長で皇后宮大夫であった香川敬三の寄附などを受け、夫の西村松兵衛らを賛助人として、妹の光枝により、母の貞などが眠るこの信楽寺に建立されました。

刻まれている文字は、「龍馬之妻」

西村ツルとして四十年近くを生きた人の墓に、最後は龍馬の妻と刻まれる。それを望んだのが本人だったのか、周囲だったのかは説明板からはわかりません。ただ、京都の近江屋の跡に立ったときの感覚とは、明らかに種類の違う重さがありました。暗殺された側の物語は一日で終わりますが、残された側の物語はそこから四十年続く。それが横須賀の高台にあるのです。

毎年秋には墓前祭にあわせて「おりょうさんまつり」が催されるそうです。

昼は三浦の海鮮丼

ここで昼食。三浦のあたりで海鮮丼を食べた記憶があります。史跡めぐりの記事に食事の話は余計かもしれませんが、ペリーが上陸したのも、この海の幸を獲っていた漁村のすぐそばでした。黒船に驚いた久里浜の漁師たちも、同じ海のものを食べていたはずです。そう思うと、まったく無関係でもありません。

ペリー上陸記念碑 ― 幕末は、この浜から始まった

そして久里浜へ。ここが、この日いちばん「幕末の現場」らしい場所でした。

ペリー上陸記念碑。碑面には「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」とある
ペリー上陸記念碑。碑面には「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」とある

嘉永六年六月九日(1853年7月14日)、東インド艦隊司令長官ペリーがアメリカ大統領の国書をたずさえて久里浜に上陸しました。日本の近代は、事実上この日この浜から始まります。碑面の「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」は、伯理=ペリーの当て字です。

横須賀市教育委員会の文化財説明板。ハイネが描いた「ペリー久里浜上陸図」が添えられている
横須賀市教育委員会の文化財説明板。ハイネが描いた「ペリー久里浜上陸図」が添えられている

説明板によると、この碑が建ったのは上陸から四十八年後の明治三十四年(1901)七月十四日 ― 上陸とちょうど同じ日付です。総高五・二五メートル。そして碑前面の文字は、初代内閣総理大臣・伊藤博文の筆。建立したのは米友協会で、会長は金子堅太郎でした。

建立のきっかけが、また良い話でした。明治三十三年十一月の米友協会の式典で、ペリーとともに久里浜に上陸した退役海軍少将ビアズリーが、上陸の地に日米最初の接点を示すものが何も無いことを語り、聴衆に感銘を与えた。ビアズリーは上陸のとき十七歳の少尉候補生でした。少年として黒船の端に乗っていた男が、老将となって「あの浜に何もないのは寂しい」と語ったわけです。

これを受けて米友協会が建立を計画し、明治憲法の起草に関わった法律家で政界にも影響力のあった金子堅太郎が奔走。国内だけでなくアメリカからも建設費を募り、わずか八か月で落成式にこぎつけました。

「ペリー上陸記念碑物語」の説明板。日英併記で建立から復元までが語られている
「ペリー上陸記念碑物語」の説明板。日英併記で建立から復元までが語られている

ただし、この碑には一度倒された歴史があります。太平洋戦争中、「敵国を讃えている」として引き倒されたのです。復元されたのは終戦の年、昭和二十年(1945)十一月。碑が倒れてから復元まで、およそ半年でした。

この碑は平成十九年三月十二日に横須賀市指定重要有形文化財となっています。ペリー来航という日本近代の幕開けを象徴すると同時に、日米関係が良くなったり悪くなったりした百七十年を、倒れて起き上がった一本の石が体現している。韮山反射炉江戸城も、すべてはこの浜への反応として始まったのだと思うと、なんでもない広場が急に重く見えました。

そして、いまの横須賀

横須賀の岸壁に停泊する海上自衛隊の護衛艦
横須賀の岸壁に停泊する海上自衛隊の護衛艦
対岸から見る横須賀。灰色の艦体がいくつも並ぶ
対岸から見る横須賀。灰色の艦体がいくつも並ぶ

帰り道、湾沿いから護衛艦を眺めました。灰色の艦体が何隻も並んでいます。

ペリーが四隻で乗り込んできた湾に、いま日本の艦が並んでいる。その入口の公園には、幕末の海戦を戦った少年が老いてから座乗した戦艦が据えられている。そして高台の寺には、その時代に生きた男の妻が眠っている。横須賀という街は、幕末以後の日本をまるごと現在進行形で積み上げてきた場所なのだと、ここでようやく腑に落ちました。

歩いてみて

おじさん三人の日帰りドライブとしては、われながら渋いコースだったと思います。ただ、この三か所は本当によくつながっていました。

嘉永六年、久里浜に黒船が来る。 その十四年後に龍馬が京都で斬られ、その妻は横須賀に流れ着いて四十年を生きる。同じころ薩摩の二十歳の若者が春日丸の甲板で開陽丸と撃ち合い、その男が三十七年後、この街に据えられることになる戦艦の艦橋に立つ。

ばらばらの史跡のようでいて、登場人物たちは同じ二十年間を生きた同時代人です。幕末という時代の短さと、そのあと彼らが生きた時間の長さ。その落差を一日で味わえるのが、横須賀というコースの面白さだと思いました。

心残りがひとつ。東郷神社にはまだ行けていません。東郷平八郎を祀る社が東京・渋谷にあります。三笠で像を見上げたあとだと、あそこは違って見えるはずです。訪ねたらこの記事に追記します。

アクセスと地図

記念艦三笠(三笠公園)/神奈川県横須賀市稲岡町。京急線の横須賀中央駅から徒歩十五分ほど。艦内は有料で見学でき、艦橋・甲板・艦内展示まで通して回れます。東郷平八郎の銅像は艦首前の広場に立っています。

信楽寺(坂本龍子の墓)/神奈川県横須賀市大津町。京急線の京急大津駅から歩ける距離。お墓は墓地内にあり、参拝の際は他の方のお墓ですので静かに。毎年秋に「おりょうさんまつり」が催されます。

ペリー上陸記念碑(ペリー公園)/神奈川県横須賀市久里浜。京急久里浜駅・JR久里浜駅からバス。園内にペリー記念館が併設されていて、上陸の経緯を詳しく学べます。碑と説明板だけなら十五分ほど。

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