| 家木将監 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 不明 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 離隊 | ||
文久三年に入隊するがその後すぐに離隊し、以後の消息は不明です。
家木将監をもっと深く—結成の年に入って、すぐ去りました
文久三年に入隊し、その後すぐに離隊しました。以後の消息は分かっていません。
文久三年の壬生は、まだ隊の形をしていません
この年の二月、清河八郎の呼びかけに応じた浪士たちが将軍警護のため上洛しました。ところが清河が「尊皇攘夷の先鋒に」と唱えて大半を江戸へ引き返させます。
京都に残ったのは二十四人。壬生の八木家などを宿所として「壬生浪士組」を名乗りました。
そしてこの集団は、はじめから三つに割れていました。
その年のうちに、人が消えていきます
三月二十五日、殿内義雄が四条大橋で暗殺されます。四月六日には阿比留鋭三郎が病死しました。壬生浪士組で最初の死者です。四月二十四日、家里次郎が大坂で切腹させられます。そして九月十八日、芹沢鴨が八木邸で斬られました。
結成から一年たたないうちに、これだけの人がいなくなっています。殿内の死後、その派の同志は次々に隊を離れました。
家木将監がどの派に近かったのかは分かりません。ですが「入ってすぐ離隊」という記録は、この年の壬生の空気とよく合います。
去った人の記録は残りません
この年に隊を離れた人は少なくないはずですが、名前が残っているのはごくわずかです。名簿に載る前に去った人は、そもそも数えられていません。
家木将監は、名簿に名前だけを残して消えました。それでも「文久三年に壬生にいた」という一点は、確かに記録されています。
新選組隊士全456名情報
文久三年五月の上書に、名が連なっています
すぐ去ったと上に書きましたが、この隊士が隊にいたことを示す手がかりが一つあります。文久三年三月ごろに入隊し、同年五月二十五日付で新選組が幕府へ提出した上書に名を連ねている、と記す資料があります。その上書が正式には何という文書なのかまでは確認できませんが、同じ時期の隊の名簿には、家木将監のほかに佐々木愛次郎・三浦堅太郎・安藤早太郎・亀井造酒之助・河合耆三郎といった名が並んでいます。壬生に居ついた浪士たちが、京での身の置きどころを幕府に認めてもらおうとしていた時期です。
創設の二十四人は、資料によって顔ぶれが違います
文久三年三月に壬生へ残った者は二十四人とされることが多いのですが、その二十四人が誰なのかは、じつは一本化されていません。芹沢鴨の一派、近藤勇らの試衛館の一派、そして殿内義雄・家里次郎・根岸友山の一派という三つのかたまりに無所属を加えて数えるのが普通ですが、資料によって入っている名が違い、数え直すと二十五人になってしまうものもあります。同時代の記録にいたっては、人数そのものが「三十余人」「三十六人」「六、七十人」とばらばらです。会津藩士広沢富次郎の「鞅掌録」、蓬左文庫に伝わる「聞書」、松代藩士片岡春煕の「莠草年録」といった当時の書きものが、それぞれ違う数を伝えています。
去るというより、消されることもありました
この年、隊を離れた者は家木将監だけではありません。殿内義雄は文久三年三月二十五日に四条大橋で斬られ、家里次郎は四月二十四日に大坂で切腹を強いられました。根岸友山とその一党も早くに抜けています。つまりこの時期の新選組は、まだ一つの組織になっておらず、主導権を争って人が減っていく途中でした。そのなかで五月の上書に名を連ね、七月より前に姿を消した—家木将監という名が伝えるのは、そこまでです。壬生浪士組がどうやって新選組になっていったかについては幕末の新選組、隊士名簿はなぜ食い違うのかにも書きました。
家木将監の生きた時代—壬生の屯所
壬生村の屯所 家木将監が隊にいた文久三年(1863)、壬生浪士組の屯所は、京都の西の郊外・壬生村の郷士の屋敷に置かれていました。八木家・前川家などの屋敷に隊士たちが分かれて住み、近くの壬生寺の境内で剣術や砲術の稽古をしています。
いまの壬生 八木家の屋敷はいまも当時の建物が残り、見学することができます。壬生寺には近藤勇の胸像や、新選組の隊士たちを葬った「壬生塚」があります(壬生・八木邸の現地取材)。新選組が生まれた町の姿を、いまも歩いてたどることができるのです。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:安藤雅次郎(諸士取調役兼監察)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

