| 阿比留鋭三郎 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 対馬 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
浪士組結成メンバーの中の一人です。
文久三年に浪士組に参加して上洛しました。
しかし上洛以前より体調不良だったらしく後に病没しました。

阿比留鋭三郎をもっと深く—新選組で最初に死んだ隊士
新選組の死者というと、斬り合いや戦死が思い浮かびます。ですがこの集団で最初に死んだのは、病に倒れた対馬の隊士でした。
玄武館で千葉栄次郎に学んだ人
天保十三年生まれ。対馬藩の元藩士で、江戸に住んでいました。剣は北辰一刀流。玄武館で千葉栄次郎に師事しています。清河八郎が残した「玄武館出席大概」に名があります。
文久三年二月、浪士組に加わり、三番組小頭・常見一郎の部下として上洛しました。三月十日、近藤勇らとともに京都残留を願い出て、十二日に会津藩御預かりの壬生浪士組の一員となります。結成時の二十四人の一人です。
ただし、上洛したときにはもう病んでいました
記録を追うと、はっきり分かります。三月十五日の守護職邸訪問も、三月二十三日の建白も、どちらも病気で欠席しています。この時点で相当に重かったのでしょう。
そして文久三年四月六日、壬生で客死しました。享年二十二。結成からわずか一か月足らずのことです。
死亡日を三月二十五日とする説もあり、また死因を病死ではなく殺害とする資料もあって、諸説あります。
壬生寺の「七士之墓」
遺体は壬生寺南門の向かいにある共同墓地に葬られました。そして元治元年の秋、壬生寺に「七士之墓」が建てられ、そこに「阿比原栄三良」の名が刻まれています。
この人の表記は資料によってばらばらです。阿比留鋭三郎、阿比類鋭三郎、阿比留栄之介、阿比原栄三良、安比留栄三郎—墓碑の表記ですら一定していません。
名前の書き方すら固まらないうちに死んだ、ということでもあります。壬生浪士組が「新選組」の名を与えられるのは、この人が死んだ四か月後、八月十八日の政変のあとでした。阿比留鋭三郎は、新選組という名前を知らずに死んでいます。

阿比留鋭三郎の生きた時代—対馬藩の幕末
対馬の出身 阿比留鋭三郎は対馬の出身です。対馬府中藩(宗家)は朝鮮との外交と交易を担う藩でした。文久元年(1861)には、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬に来て半年近く居座り、島の一部を占拠する事件が起きています。
攘夷の藩 この事件ののち、対馬藩では攘夷の考えが強まり、長州藩と深く結びつきました。そうした藩の空気の中から京都へ出た阿比留は、新選組の結成まもない文久三年(1863)に隊に加わりましたが、まもなく病で亡くなっています。
阿比留鋭三郎が加わった浪士組と、壬生の二十四人
京都に残った人びと
阿比留鋭三郎が名を連ねた壬生浪士組は、文久三年三月に京都に残った浪士たちが会津藩の預かりとなって始まった集まりです。結成時の二十四人には、のちの新選組の中心となる人びとが顔をそろえていました。阿比留が亡くなる前後の主な顔ぶれは次のとおりです。
- 局長:芹沢鴨、近藤勇、新見錦
- 副長:土方歳三、山南敬助
- 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、斎藤一、平山五郎、平間重助、野口健司 ほか
対馬藩の幕末
阿比留の故郷・対馬藩は、朝鮮との外交と貿易を担う藩でした。文久元年(1861年)には、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬の浅茅湾に半年近く居座る事件が起き、イギリスの介入でようやく退去しています。外国の脅威をじかに受けた対馬では、攘夷の考えが強まっていきました。阿比留が江戸で剣を学び、浪士組に加わったのも、こうした時代の空気の中でのことです。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:足立麟太郎(局長附)
次の隊士 ▶:阿部十郎(伍長)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)
壬生寺の表記は「阿比原栄三郎」
この人の名を公の資料で確かめようとすると、行き着くのは壬生寺です。
壬生寺の公式の説明では、この隊士を「阿比原栄三郎」と表記し、「副長助勤。『阿比留鋭三郎』とも言う」と併記しています。没年は文久三年四月六日。そして死因について寺は断定せず、「病死したとも暗殺されたとも言われている」と書いています。
平隊士か副長助勤か、病死か暗殺か、名の字すら定まらない。寺が併記という形を選んでいること自体が、この人についてどこまで言えるかの目安になります。
壬生塚の十一名と、七名の合祀墓
壬生寺によりますと、壬生塚に祀られる隊士は十一名です。そのうち個別の墓碑があるのは、近藤勇(胸像と遺髪塔)、芹沢鴨、平山五郎、河合耆三郎の四名。残りは「隊士七名の合祀墓」とされ、阿比原栄三郎はこちらに入ります。
合祀墓には池田屋で亡くなった奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らも葬られています。壬生寺が挙げる十一名の没日のうち、文久三年四月六日はいちばん早く、次が芹沢鴨と平山五郎の同年九月十八日です。「最初に死んだ隊士」という言い方の支えはこの並びですが、壬生寺自身は「最初の隊士」とは書いていません。
なお、壬生寺の境内は新選組の兵法調練場として使われ、武芸と大砲の訓練が行われた場所でした。この人が亡くなった壬生は、隊が稽古をしていた場所でもあります。
東京にも、もうひとつの刻名がある
墓碑の表記がばらついていることは本文でも触れましたが、京都だけの話ではありません。東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地には「安比留栄三郎」と刻まれていると伝わります。近藤勇の墓があるあの場所です。
京都の壬生寺に「阿比原栄三良」、東京の寿徳寺に「安比留栄三郎」。二か所に名が刻まれながら、どちらの字も本人が書いた字ではありません。
対馬の阿比留氏について、ひとつ注意
姓から対馬の阿比留氏を思い浮かべる方もいると思いますので、補っておきます。
阿比留氏は宗氏の家臣ではありません。長崎県の「対馬の歴史年表」や事典類によりますと、阿比留氏は宗氏に先行して対馬に勢力を持った在庁官人の家で、十三世紀後半に宗氏が台頭してこれに取って代わりました。寛元年間に宗重尚が阿比留氏を討ったという話は、長崎県の年表自身が「伝承がある」と書き、事典では後世の説話とされています。
そして、鋭三郎本人とこの阿比留氏を結びつける資料は見つかっていません。姓が同じだからといって同じ家とは言えない、というところで止めておきます。
参考資料
名の表記、没日、死因の書き方、壬生塚の構成と兵法調練場は壬生寺の公式の説明、合祀墓が七名であることは壬生寺および同志社大学の公開資料によります。対馬の阿比留氏については長崎県「対馬の歴史年表」および事典類によります。生国・入隊の経緯・享年は典拠を示さない資料に拠るもので、京都市、日野市、対馬市、長崎県のいずれの公開資料にも本人の名は見つかっていません。寿徳寺境外墓地の刻名についても、板橋区の公開資料に隊士名の一覧はありません。


