鹿奴藩(鳥取藩支藩、鳥取東館新田藩)/池田家3万石:池田徳澄 戊辰戦争では本家鳥取藩と共に新政府軍に与した鹿奴藩

【藩名】
鹿奴藩(鳥取藩支藩、鳥取東館新田藩)

【説明】
鹿奴藩は鹿野藩「鳥取東館新田藩」ともいう。同地には以前の領主である亀井氏による「鹿野藩」も存在していたため混同されます。貞享2年(1685年)に鳥取藩主「池田光仲」が鳥取藩の新田2万5000石を次男の「池田仲澄」に与えて新田分知による分家としたのが始まりです。藩庁は江戸時代を通して鳥取に置かれたが、明治元年(1868年)12月10日になってから鹿奴陣屋(鹿野陣屋)を藩庁としたため「鹿奴藩」と呼ばれるようになりました。

池田仲澄時代の晩年である元禄15年(1702年)閏8月7日、5000石を加増されて3万石となるが、これは本家の鳥取藩から蔵米を支給される形です。第9代藩主「池田仲建」は元治元年(1864年)6月27日、鳥取藩主「池田慶徳」と京都出兵をめぐって対立し、諫死しています。

慶応4年・明治元年(1868年)の「戊辰戦争」では、本家の鳥取藩に従って新政府軍に与しました。明治2年(1869年)、戊辰戦争の行賞として2000両を与えられるもみずから廃藩し鳥取藩に吸収されました。

目次

本家・鳥取藩との関係

鹿奴(しかの)藩は、鳥取藩(池田家)の支藩で、もとは「鳥取東館新田藩」と呼ばれました。本藩から三万石を内分された大名で、若桜藩(鳥取西館新田藩)と並ぶ鳥取藩の二つの新田分家のひとつです。こちらも長く江戸定府で、幕末に領内へ陣屋を構えて鹿奴藩を称しました。

戊辰戦争では、本家の鳥取藩が早くから新政府方として山陰・北陸・東北へ藩兵を進めており、鹿奴藩もその宗家と行動をともにしました。小さな内分の分家ながら、維新の動乱を本家とともに乗り切った藩です。

皇室にもつながる家系と、養子で継いだ徳澄

藩祖池田仲澄の孫にあたる池田数計子は勧修寺経逸に嫁ぎ、その娘婧子はのちに光格天皇の后となりました。今上天皇にまで連なる皇統に、鹿奴藩池田家の血が入っていることになります。幕末の藩主徳澄は一族の池田仲諟の三男に生まれ、従兄である9代藩主仲建の自害を受けて元治2年(1865年)にその養子として家督を継ぎました。

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