小島藩/松平家1万石:松平信敏 徳川宗家の家名存続と駿府移封に伴い上総国金ヶ崎藩へ転封となり廃藩

小島藩 松平家1万石 最後の藩主 松平信敏
目次

小島藩の歩み

元禄二年(1689年)五月、「松平信孝」が四千石を加増を受けて一万石の大名となり小島藩を立藩しました。幕末最後の藩主「松平信敏」は慶応三年(1867年)に新政府側に与します。明治維新後の徳川宗家「徳川家達」の駿府府中移封に伴い小島藩は廃止されました。新たな替地として信敏は上総国金ヶ崎藩(桜井藩)に移封となりました。

陣屋跡が、国の史跡になっています

小島藩は元禄二年(1689年)から明治元年まで、滝脇松平家が十一代にわたって治めた一万石の藩です。藩庁は庵原郡小島村、いまの静岡県静岡市清水区小島本町にありました。

この小島陣屋跡が、平成十八年(2006年)に国の史跡に指定されています。建物そのものは昭和三年(1928年)に解体されましたが、石垣などの遺構が良好に残っているためです。

徳川宗家が駿府に入ったので、追い出されました

幕末最後の藩主・松平信敏は、慶応三年(1867年)に新政府側についています。ところが皮肉なことに、そのために所領を失いました。

明治元年、徳川宗家が駿府藩七十万石を認められて駿河へ入ります。その土地に小島藩があっては都合が悪い。信敏は上総国へ替地を与えられて移されました。

金ヶ崎、そして桜井へ

移った先は上総国周准郡金ヶ崎。ここに仮の陣屋を置いたため「金ヶ崎藩」とも呼ばれます。ただし独立した藩ではなく、あくまで仮陣屋の地名だとする見方もあります。

翌明治二年、不便を理由に望陀郡桜井村—現在の千葉県木更津市へ陣屋を移し、桜井藩と称しました。(千葉県の資料は「明治二年三月に桜井藩と改称」としています。)

そして明治四年の廃藩置県で桜井県となり、木更津県を経て千葉県に編入されました。駿河から上総へ、二度の移転の末のことです。

高さ四メートルの石垣と、陣屋跡へ移された御殿書院です

石垣を多く使った三段の曲輪

静岡市公式と、NPO法人小島文化財を守る会によれば、小島陣屋は宝永元年(1704年)に松平信治が置き、百六十四年続きました。陣屋跡には西側から南側にかけて石垣を多く使った三段の曲輪があり、大手口の石垣は高さ約四メートルあります。上の段で触れた国史跡の指定日は、平成十八年(2006年)七月二十八日です。

藩の始まりについては、上の段が元禄二年(1689年)の立藩としています。ブリタニカ国際大百科事典は、元禄十一年(1698年)に小島へ移ってきて、宝永元年に陣屋を小島に移したと書いています。

御殿書院は、陣屋跡に移されて公開されています

陣屋の建物のうち御殿書院は、平成十三年(2001年)一月十日に静岡市の指定文化財となりました。令和四年度から六年度にかけて陣屋跡へ移して復原され、令和六年十一月から公開されています(静岡市公式)。

最後の藩主信敏は、高遠藩の生まれです

日本人名大辞典によれば、松平(滝脇)信敏は嘉永四年(1851年)五月二十三日に、信濃高遠藩主内藤頼寧の四男として生まれました。元治元年(1864年)に小島藩の十一代藩主となり、駿府藩ができたことで上総へ移されます。明治になって藩名を桜井藩と改め、姓も滝脇に改めました。

上総で最初に仮陣屋を置いた場所は、日本大百科全書が周准郡南小安村、別の資料が金ヶ崎としていて、地名が一致しません。その後の桜井藩のことは桜井藩のページにまとめています。

信敏は明治十七年(1884年)に子爵となりました。華族令のときに存命だったため、本人が爵位を受けています。明治二十年(1887年)八月十日に三十七歳で亡くなりました。

藩は上総へ移りましたが、駿河の小島には、百六十四年分の石垣と、陣屋跡へ移されて公開された書院があります。

小島藩をもっと詳しく

藩主家の先祖と、大名になるまで

小島藩主家の祖は、徳川家康に仕えて大坂の陣で戦死した松平正勝です。正勝は滝脇松平家の始祖・松平乗清の子孫とされますが、系図にははっきりしない点があり、『寛政重修諸家譜』も判断を保留しています。正勝には男子がなく、将軍の命により形原松平家の松平家信の次男・重信が娘婿として家を継ぎました。重信は駿府城代などを務め、駿河国の庵原・有渡・安倍の三郡で五千石を知行しています。

重信の養子・松平信孝は、丹波篠山藩主・松平典信の庶長子で、五代将軍・徳川綱吉の側近として仕えました。天和二年(1682年)に千石を加増され、元禄二年(1689年)五月十一日に若年寄となった際、武蔵国・上野国で四千石を加えられて一万石の大名となります。しかし信孝は翌年、三十六歳で亡くなりました。

「阿部入藩」から小島藩へ

信孝の跡は、母方の甥にあたる松平信治が末期養子として継ぎました。元禄十一年(1698年)に武蔵・上野の所領が駿河三郡の中に移され、小島村をふくむ興津川流域や安倍川の河口部が領地に加わります。宝永元年(1704年)、信治は身延道沿いの小島村に陣屋を築き、この年に初めて領地へ入りました。それまでの時期は「阿部入藩(安倍谷藩)」とも呼ばれ、信治を初代の小島藩主と数える見方もあります。

領地のようす

幕末の領地は、庵原郡のうち十三村、有渡郡のうち六村、安倍郡のうち十二村で、大きく三つに分かれていました。小島村をふくむ興津川流域の「山方」、駿府周辺の「府辺」、安倍川河口部の「浜方」です。府辺の村々を治める役所は宮ケ崎に置かれていました。いまの静岡市清水区から葵区・駿河区にかけての地域にあたります。

苦しい財政と一揆、そして恋川春町

小島藩の財政は初めから苦しいものでした。四代・松平昌信の時代には年貢を増やし支出を削る改革が行われ、寛延三年(1750年)から宝暦四年(1754年)にかけて、年貢の前取りの名目で領民から借りたお金は利息をふくめて七千両を超えました。明和二年(1765年)には年貢の増徴に反対する惣百姓一揆が起こり、藩は年貢を軽くする要求を認めざるをえませんでした。九代・松平信進の代には、領内の特産である駿河半紙の専売制を行い、ある程度の成果を上げています。

五代・松平信義の時代、藩の年寄だった倉橋格は、「恋川春町」の名で黄表紙(大人向けの絵入り読み物)を書いたことで知られています。

この石高で動員できた兵の目安と、実際の家臣団

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万石のこの藩はおよそ二百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

実際の小島藩の家臣は百二人ほどでした。足りない分は、領内の農民から希望者四十人ほどを「郷足軽」として苗字帯刀を許し、土地を与えて補っていました。山間部の村で猟のために鉄砲を持つことを許された人々も、いざというときの戦力とされたといいます。嘉永六年(1853年)の黒船来航のときには、藩士と足軽それぞれ数十人が西島村と中島村の境に陣所をつくり、数日間守りについています。

陣屋のその後

上総へ移ったあと、小島陣屋は駿府藩(静岡藩)に引き渡され、小島役所や私塾の教場、小学校の校舎として使われました。一般の陣屋と違い、表門が枡形の構えになっているのも特徴です。御殿の書院は昭和三年(1928年)の解体のときに地元に払い下げられ、小島町公会堂として使われました。

参考:Wikipedia「小島藩」

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