浅川藩の歩み
浅川藩は寛文二年(1662年)十一月、石川藩と同じく、白河藩主「本多忠義」の三男「本多忠以」が一万石を父から分与されたことで成立した藩です。忠以の後を継いだ弟「本多忠晴」が天和元年(1681年)九月、三河国伊保藩へ移封となり浅川藩は廃藩となりました。
【廃藩のあと—幕末の浅川】
藩は天和元年に終わりました
浅川藩は寛文二年(1662年)に白河藩主本多忠義の三男忠以が一万石を分けられて立藩し、天和元年(1681年)九月、本多忠晴が三河の伊保藩へ移って廃藩となりました(Wikipedia)。幕末の浅川に藩はありません。
幕末には、越後高田藩の陣屋が置かれていました
そのあとの浅川には、別の藩の役所が置かれます。寛保元年(1741年)の三方領知替で、白川・田村・石川・岩瀬の四郡の百二十二か村が越後高田藩(榊原家十五万石)の分領となり、翌寛保二年三月、石川郡浅川村に浅川陣屋が設けられました(Wikipedia)。
この陣屋は、宝暦元年の大火、寛政十年正月の浅川騒動、文化元年の再度の大火を経て、文化六年(1809年)に白川郡の釜子へ移されています。釜子陣屋は戊辰戦争のさなかに新政府軍の攻撃を受けて焼け、明治のはじめに廃止されました。
幕末の浅川村そのものは幕府領に分類され、コトバンクのブリタニカ国際大百科事典も、浅川は「近世の初めは浅川氏の城下町で、のち塙代官所の陣屋がおかれた」と説明しています。慶応二年に白河藩(→白河藩)が棚倉藩へ移ったあと、旧白河藩領は幕府領となり二本松藩が管轄しました。
残っているもの
浅川陣屋の跡は、いまの浅川小学校の敷地にあたり、校内に記念碑が建っているとされます(Wikipedia)。町公式や県の文化財情報では、陣屋跡や浅川藩に関する指定文化財はわかっていません。町には浅川町歴史民俗資料館があります。
廃藩後の県は、明治四年に周辺で三春・棚倉・泉・中村・湯長谷・磐城平・二本松の各県が成立し、明治九年(1876年)八月二十一日に福島・若松・磐前の三県が合併して、いまの福島県となりました。
本多忠勝の孫の家から分かれた藩
浅川藩を分け与えた白河藩主・本多忠義は、徳川四天王・本多忠勝の孫で、姫路藩主・本多忠政の子にあたります(忠勝の家のことは足助藩も参照)。忠義は子どもたちに領地を分け、陸奥の石川と浅川に小さな分家の藩が生まれました。浅川藩の本多忠以・忠晴の兄弟は、その忠義の子です。
浅川を出た本多家の幕末—陸奥泉藩
浅川から三河の伊保、遠江の相良を経て、本多忠晴の家は延享三年(1746)に陸奥の泉(いまの福島県いわき市)へ移り、泉藩主として明治を迎えました(伊保藩)。この家からは、寛政の改革のころ松平定信を支えた老中格・本多忠籌が出て、行列の槍飾りから「赤玉本多」と呼ばれています(泉藩)。浅川を出た本多家は、百年あまり後に、同じ陸奥の太平洋岸に戻ってきたことになります。
浅川城と浅川氏
浅川の町を見下ろす城山には、戦国時代にこの地を治めた浅川氏の浅川城がありました。浅川氏は石川氏の一族とされ、周辺の白河結城氏、佐竹氏、伊達氏などの大きな勢力のあいだで揺れ動きながら、この地を守りました。いまも城山には曲輪の跡が残り、春には桜の名所として親しまれています。
同じころの日本—殉死の禁止
寛文三年の武家諸法度 浅川藩が置かれた寛文年間、四代将軍家綱のもとで、寛文三年(1663)に殉死が禁じられました。主君が亡くなったときに家臣が後を追って自ら命を絶つ殉死は、戦国時代以来の武士の習わしでしたが、幕府はこれを禁じ、家臣は主君の跡継ぎに仕えるべきだとしたのです。
武断から文治へ この時期、幕府の政治は、武力で大名を押さえつける「武断政治」から、法と礼儀で治める「文治政治」へと移っていきました。大名が跡継ぎを決めずに亡くなっても、死の直前に養子を決めれば家を残せるようになったのも、この流れの中のことです。
本多忠晴のその後
浅川藩主だった本多忠晴は、のちに遠江の相良に入りました。相良はその後、板倉家を経て田沼意次の領地となり、「日本一短命の城」と呼ばれる相良城が築かれます。忠晴の家が去ったあとの相良の歴史は、相良藩のページにまとめています。
場所・アクセス・地図
福島県石川郡浅川町
〒963-6204 福島県石川郡浅川町浅川城山
藩のあとに、高田藩の陣屋が置かれました
浅川藩は寛文二年(1662年)、白河藩主・本多忠義の三男である本多忠以が一万石を分与されて成立した支藩です。天和元年(1681年)九月に三河国の伊保藩へ移り、廃藩となりました。
ここからが本題です。浅川はその後、別の藩の飛び地になります。
越後高田藩の、陸奥の飛び地
寛保元年(1741年)の三方領地替えで越後高田藩に入った榊原家は、陸奥にも所領を得ました。その管理のため、寛保二年(1742年)三月、石川郡浅川村の本町東裏に浅川陣屋を設置しています。文化二年(1805年)には本町の西裏へ移されました。
高田藩の陸奥飛び地は、のちに釜子—現在の福島県白河市へ陣屋を移しています。
ただし『旧高旧領取調帳』では、幕末の浅川村は幕府領として記録されています。高田藩の飛び地がいつ浅川から離れたのか、今回調べた範囲でははっきりしませんでした。
いま残るもの
浅川陣屋跡は、現在の浅川小学校の敷地です。校内に記念碑が立っています。



