白河新田藩(白河藩支藩)/松平家2万石:松平忠尚 陸奥桑折藩に移封となり廃藩

【藩名】
白河新田藩(白河藩支藩)

【説明】
白河新田藩は元禄元年(1688年)、「松平忠尚」が白河藩主で養父「松平忠弘」より2万石の新田を分与されたことに始まります。忠弘の嫡子「松平清照」の病弱を理由に、天和元年(1681年)に次期白河藩主として迎えられた忠尚だったが、清照の嫡子「忠雅」の成長により廃嫡となりました。

これにより別家として新田2万石を与えられたのです。元禄13年(1700年)、忠雅が出羽山形藩より備後福山藩に転封となったのと同時に、忠尚も陸奥桑折藩に移封となり、白河新田藩は廃藩となりました。

目次

本家・白河藩との関係

白河新田藩は、陸奥の白河藩の支藩で、松平家の分家が二万石を領しました。

この藩は、陸奥の桑折(こおり)へ移されて「桑折藩」となり、白河新田藩としては姿を消しました。最後の藩主は松平忠尚です。たびたび藩主家が入れ替わった白河の地に連なる、支藩の一つでした。幕末の白河藩の動きは本家のページをご覧ください。

白河新田藩とは——分知から十二年で消えた支藩

白河新田藩は、白河藩主の松平忠弘が婿養子の松平忠尚に二万石を分け与えて成立した支藩です。分知は元禄元年(1688年)十月のことで、忠尚は本家の領内から知行を受ける内分の大名でした。独立した城下町を構えたわけではなく、陣屋がどこに置かれたのかは、現在のところはっきりしません。

藩の寿命は長くありませんでした。元禄十三年(1700年)正月、忠尚は陸奥桑折藩へ移されて白河新田藩は幕を閉じます。分知からわずか十二年、白河の地に形の残る痕跡をほとんど残さないままの退場でした。

幕末の白河には藩主がいなかった

幕末の白河を語るとき、まず押さえておきたいのは「白河藩はすでに存在していなかった」という事実です。慶応二年(1866年)六月、兵庫開港問題で処分を受けた阿部正外の跡を継いだ白河藩主の阿部正静は、家督相続と同じ日に棚倉への転封を命じられました。実際の移転は翌慶応三年(1867年)正月です。

以後、白河は藩主のいない土地となり、白河城(小峰城)と旧藩領は幕府領として二本松藩の預かりとなります。奥羽の玄関口にあたる要衝が、守るべき主を持たないまま戊辰の年を迎えたのでした。

白河口の戦い——奥羽をめぐる百日の攻防

慶応四年(1868年)閏四月二十日、二本松藩兵が守っていた白河城へ会津藩兵と新選組が進駐し、城は奥羽越列藩同盟の手に入ります。二十二日には新選組が合流して守りを固め、二十六日には会津藩家老の西郷頼母が白河口総督として入城しました。

閏四月二十五日、新政府軍の先遣隊が白坂口へ奇襲をかけますが、会津藩遊撃隊と新選組がこれを撃退しています。形勢が変わったのは五月一日でした。新政府軍は兵を三隊に分けて総攻撃をかけ、稲荷山から突入して小峰城を占領します。兵力は同盟軍が二千から二千五百、新政府軍が七百ほどでしたが、死傷者は同盟軍が七百前後、新政府軍は二十人前後と伝わります。

同盟軍はその後も七度にわたって城の奪還を試み、戦いは七月十四日まで続きました。白河市の資料によれば、およそ百日に及んだ白河口の戦いの戦死者は同盟軍が九百二十七人、新政府軍が百十三人にのぼります。仙台藩棚倉藩の兵も加わった、奥羽戊辰でも屈指の消耗戦でした。

小峰城と、両軍の眠る町

白河小峰城は平成三年に三重櫓が、平成六年に前御門が木造で復元され、平成二十二年八月に国の史跡に指定されています。東日本大震災で石垣十か所が崩落しましたが、平成三十一年三月に修復を終えました。

町には戦死者を悼む碑がおよそ三十基残ります。長寿院には新政府軍側の墓と「白河役陣亡諸士碑」があり、稲荷山公園には両軍あわせて千人近い戦死者の名を刻んだ「戊辰之碑」が立ちます。敵味方の区別なく弔ってきた土地であることが、碑の数から伝わってきます。

【場所・アクセス・地図】

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