足助藩/本多家7千石:本多忠陳 1万石大名となるが勤務怠慢のため減封となり廃藩

足助藩 本多家7千石 最後の藩主 本多忠陳
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足助藩の歩み

徳川四天王で有名な「本多忠勝」の孫「本多忠義」の五男である「本多忠周」は加茂郡足助村に陣屋を置き七千石の交代寄合となりました。忠周は天和三年(1683年)に寺社奉行となったことから三千石の加増を受け、これにより合計一万石の大名として足助藩を立藩しました。

しかし貞享四年(1687年)、勤務怠慢から寺社奉行を免職され、2年後の元禄二年(1689年)には加増分の三千石を没収されて再び七千石の旗本寄合となったため足助藩は廃藩されました。なお、旗本寄合本多氏は幕末まで存続し最後の当主は「本多忠陳」となります。

廃藩のあと—塩を混ぜて売った町

足助藩は元禄二年(1689年)、本多忠周が寺社奉行を免職となって加増分三千石を没収されたため廃藩となりました。ただし家は残り、本多家は旗本寄合席七千石として幕末まで足助に陣屋を置き続けています。

この町の幕末を作っていたのは塩でした。足助は伊那街道の要衝で、中馬と呼ばれる馬による輸送で物資が行き来しました。そして足助の塩問屋がしていたのは、単なる中継ではありません。三河産と西国産の塩をここで混ぜ合わせて品質を整え、「足助塩」として信州へ送っていたのです。塩は新しい俵に詰め替えられました。いまでいうブレンドと自社ブランド化です。

その足助が、天保七年(1836年)九月の加茂一揆で襲われます。松平郷の石御堂に集まった農民が蜂起し、加茂・額田両郡で一万数千人が参加しました。幕領・五藩領・十九の旗本領・四つの寺領にまたがる大一揆で、穀屋・酒屋・質屋が打ちこわされます。挙母の城下から足助町まで波及し、足助でも二十五軒以上が壊されました。塩で栄えた町が、塩と米の値で焼かれたことになります。

もうひとつ、この町の姿を決めた出来事があります。安永四年(1775年)の大火です。多くの商家が焼けたあと、防火を意識した漆喰塗籠めの壁とやや急勾配の瓦屋根で建て直されました。それが現在の重要伝統的建造物群保存地区の町並みです。

紅葉で知られる香嵐渓は、寛永十一年(1634年)に香積寺の三栄本秀和尚が般若心経を唱えながらもみじや杉を一本ずつ手植えしたのが始まりと伝わります。「香嵐渓」という名がついたのは昭和五年(1930年)のことです。

足助の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区、旧鈴木家住宅は国の重要文化財です。真弓山には足助城が復元されています。

本多忠勝の家系と足助の本多家

足助の本多家は、徳川四天王の一人・本多忠勝の血を引く家です。生涯五十七度の合戦で一度も傷を負わなかったと伝わる忠勝は、伊勢の桑名十万石の大名となり、子の忠政は播磨の姫路十五万石の主となりました。忠政の妻は家康の孫娘で、豊臣秀頼の妻だった千姫が再嫁した本多忠刻も忠政の子です。足助の本多忠周は、忠政の子・忠義の五男にあたります。名門の家の末の子が、三河の山あいの七千石の旗本として家を立てたのでした。

忠勝の本家のほうは、その後たびたび国替えを重ね、明和六年(1769)に三河の岡崎五万石に入って幕末を迎えました。幕末の岡崎藩主・本多忠民は、桜田門外の変のあとの万延元年(1860)に老中となり、混乱する幕府を支えています。足助の分家と岡崎の本家は、同じ三河の中で、ともに幕末まで続いたことになります。

足助城(真弓山城)

足助の町を見下ろす真弓山には、戦国時代にこの地を治めた鈴木氏の山城・足助城がありました。鈴木氏は松平家と結んだり離れたりしながら足助を守りましたが、天正十八年(1590)、家康の関東移封にともなって足助を離れています。いま城跡には、発掘調査をもとに高櫓や長屋、物見櫓などが復元され、戦国時代の山城の姿を体感できる場所として公開されています。

忠勝のひ孫の家と、職務怠慢で消えた藩—足助の本多忠周

白河本多家から分かれた五男

足助藩主・本多忠周は、本多忠勝の孫・本多忠義の五男として寛永十九年(1642年)に生まれました。寛文二年(1662年)、白河藩主だった長兄・忠平から二千五百石を分けられて別家を立てています(同じとき、兄弟には陸奥石川藩・浅川藩も分けられています。石川藩)。天和元年(1681年)に三河国加茂郡へ移り、翌年には丹波で二千石を加増されました。家格は譜代です。

寺社奉行になって大名へ、そして罷免

天和三年(1683年)二月、忠周は寺社奉行に任じられ、一万石の大名になりました。ところが貞享四年(1687年)五月、同じ寺社奉行の坂本重治とともに、職務怠慢として罷免されます。坂本も加増分を取り上げられて旗本に戻りました。何を怠ったのかは、記録にはっきり書かれていません。綱吉の時代は、役人の処分が厳しかった時代でした。

七千石の旗本として幕末まで

足助の本多家は、その後七千石の旗本として明治維新まで続きました。跡継ぎには、白河藩主・松平直矩の七男、高槻藩主・永井直珍の次男、明石藩主・松平直泰の十男と、大名家から次々に養子を迎えています。歴代の当主には、駿府城代を務めた忠弘もいます。足助の陣屋跡は、豊田市の委託で復元の検討が進められています。

旗本になっても、大名の家と縁を結び続けた

大名だったのはわずか四年でしたが、足助の本多家は旗本になってからも大名家から養子を迎え続けました。忠勝の血を引く家という誇りが、家の格を支えていたのだと思います。足助の町並みを歩くとき、塩の道の町を治めた旗本の家がどんな縁で続いていたかにも目を向けてほしいと思います。

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