高田藩の歩み
高田藩は寛永九年(1632年)、「松平重直」が摂津国三田藩より三万七千石にて豊前国竜王(大分県宇佐市安心院町)の竜王城跡地に竜王陣屋を構え入封したことに始まります。当初は竜王藩と称していたが、寛永十六年(1639年)高田城に藩庁を移したことにより高田藩となりました。

2代「英親」は弟の「重長」に三千石、「直政」に二千石を分与し表高は三万二千石となりました。正保二年(1645年)、英親が杵築藩に移封となったため廃藩となり、寛文九年(1669年)からこの地は島原藩の飛地となりました。
藩名の表記について
この藩は豊後国高田藩です。ただし最初に陣屋を置いた竜王は豊前国宇佐郡にあたり、松平重直の領地は豊前と豊後にまたがっていました。豊前・豊後で混乱しやすいのはそのためです。
廃藩のあと—幕末の高田と竜王
寛永九年(1632年)、松平重直が摂津三田から三万七千石で入り、まず豊前国宇佐郡安心院の竜王に陣屋を構えました。竜王藩と呼ばれます。寛永十六年(1639年)に豊後の高田城へ藩庁を移し、高田藩となりました。
ところが正保二年(1645年)、跡を継いだ松平英親が杵築藩へ移り、高田藩は廃藩となります。能見松平家はそのまま幕末まで杵築藩主を務めました。
残された高田の地は、寛文九年(1669年)に肥前島原藩の飛地となります。「島原領豊州陣屋」が置かれ、ここが高田の行政の中心になりました。この豊州領は島原藩六万五千九百石のうち四割を超える大領です。九州の反対側の藩が、ここを幕末まで治めていたことになります。
宇佐郡のほうは天領・中津藩領・島原藩の飛地・宇佐神宮領が入り混じり、四日市には日田代官所の出張陣屋が置かれていました。
その四日市陣屋が、慶応四年正月十四日(1868年2月7日)に襲われます。御許山騒動です。佐田秀らが率いる百五十人ほどの花山院隊が陣屋を襲って武器弾薬を奪い、火を放ちました。そのまま宇佐神宮の奥宮がある御許山に錦の御旗を掲げて籠城します。
ところが倒幕側の長州藩が、統制を外れたこの動きに激怒しました。長府報国隊が派遣され、引き渡しを拒んだ佐田秀はその場で斬られ、花山院隊は壊滅します。官軍を名乗った側が、官軍によって潰された事件でした。
竜王城跡は宇佐市安心院町龍王の山頂にあり、主郭北側に石垣が残ります。山麓の竜王陣屋跡は市指定史跡で、南側に石垣が現存します。高田城跡には、陣屋時代に整備された石段が主郭南斜面に残っています。
高田城は「豊後高田市」にあります ― 大分市の高田ではありません
この藩を調べるとき、最初につまずくのが地名です。大分県には「豊後高田市(ぶんごたかだし)」があり、大分市のなかにも「高田(たかた)」という地区があります。高田藩の藩庁が置かれたのは前者、豊後高田市のほうです。高田城の所在地は大分県豊後高田市玉津字本丸で、豊後高田城・柴崎城とも呼ばれました。大分市の高田地区とは別の場所ですので、地図を開くときはご注意ください。
そしてもう一つ、越後の高田藩(榊原家十五万石)とも別の藩です。同じ「高田藩」という名前が全く違う二つの土地にあるため、幕末の書物を読むときにも取り違えが起きやすい組み合わせです。豊後の高田藩は正保二年(1645年)に消えていますから、幕末の文献に出てくる「高田藩」はほぼ越後のほうだと考えてよいでしょう。
高田城という城の来歴
高田城は松平家が建てた城ではありません。もとは鎌倉時代に高田氏が構えた居館で、文禄二年(1593年)に竹中重利が拡張し、その後は細川氏の城となりました。寛永十六年(1639年)に松平重直が増修築して藩庁としたのが、この城が最も大きくなった時期です。
その高田城が城として使われたのは、わずか六年でした。正保二年(1645年)に英親が杵築へ移ったことで廃城となり、寛文九年(1669年)からは島原藩の豊州陣屋が置かれます。城から陣屋へ、大名の居城から飛地の役所へ、という降り方です。
それでも痕跡は残っています。堀と土塁は近世の中後期までよく残っていたことが分かっており、現在でも豊後高田市立桂陽小学校の付近など数か所でその跡をたどることができます。豊後高田市の文化財室が出している文化財ライブラリーの第一巻『豊後高田の城跡』も「高田城 ― 高田氏居館から江戸時代の『陣屋』へ ―」という章を設け、高田城跡から出た資料を紹介しています。市が城跡として正面から扱っている場所です。
石高について ― 三万二千石という数字の位置
高田藩の石高には、出典によって幅があります。松平重直の入封時を三万七千石とするものと、四万石とするものがあります。英親が弟の重長に三千石、直政に二千石を分与して表高三万二千石となったという記述もあり、いっぽうで三万二千石は杵築へ移ってからの表高だとする辞典類もあります。分与がおこなわれたのが高田時代なのか杵築移封後なのかまで特定できる資料は見つかっていません。
確かなのは、この家が三万石台の小さな譜代大名だったことと、豊後国国東郡(のちの西国東郡)を領していたことです。
能見松平家という一族
高田藩・杵築藩の松平家は「能見(のみ)松平家」と呼ばれます。松平信光の八男光親が、三河国額田郡能見(現在の愛知県岡崎市能見町)を領したことに由来する家名です。
系譜は光親から重吉、重勝へと続き、重勝の代に大名家としての基礎が固まりました。重忠のあと婿養子として入ったのが重直で、その長男が英親です。英親は寛永十九年(1642年)に父を失い、翌寛永二十年(1643年)の正月に家督を継ぎました。そして正保二年、杵築三万二千石へ移ります。
この一族は房総にも分かれています。百首藩(のちの皆川藩)の松平重則、佐貫藩の松平勝隆はいずれも能見松平家から出た家です。三河の能見から出た一族が、豊後と上総に分かれて幕末まで続いたことになります。
この家の幕末は杵築にあります
高田藩としての歴史は正保二年で終わりますが、能見松平家そのものは杵築藩主として十代・二百二十年余を重ねて明治維新を迎えました。ですから「高田藩の幕末」を知りたいときに見るべき場所は、豊後高田ではなく杵築です。
杵築の城下には、いささか変わった記録が残っています。元禄七年(1694年)四月、貝原益軒が『豊国紀行』に「木付に城なし、町あり」と書き留めているのです。当時の杵築は「木付」と表記され、城は事実上使われていませんでした。それでも町は立っていた、というのが益軒の見た光景でした。
藩校「学習館」は天明八年(1788年)、三浦梅園の献策によって創設されました。杵築は梅園のほか、綾部絅斎とその子で天文学者として知られる麻田剛立を送り出しています。特産は青莚(七島莚)でした。
幕末の杵築藩は、親子で立場が割れます。九代藩主松平親良は佐幕、その子親貴は新政府派でした。慶応四年(1868年)四月九日、親良の隠居により親貴が家督を継ぎ、藩は新政府側として参戦して会津まで兵を出しています。日出藩・府内藩と並ぶ豊後の小藩が、それぞれ判断を迫られた時期でした。
杵築の城下町は、九州で初めての組み合わせです
杵築城跡は、令和二年(2020年)三月十日に国の史跡に指定されました。範囲は模擬天守が建つ台山と、北麓の藩主御殿跡の公有地で、面積は約五万七百十五平方メートルです。指定の理由には「豊臣政権から江戸幕府成立への社会・政治情勢の変化に応じて構造が大きく変わったことが確認」できること、そして「一国一城令」による破却以前の建物構成や構造が分かることが挙げられています。藩主御殿跡のほうは、それに先立つ平成二十八年(2016年)二月二十三日に大分県の史跡となっていました。
台山の上に建つ三層三階の天守は、昭和四十五年(1970年)に建てられた模擬天守です。天守台跡を利用した資料館と展望所として使われています。史実の天守ではありませんが、ここから城下を見下ろすと、次の話がよく分かります。
杵築の城下町は、谷をはさんで南北の台地に武家地が分かれています。北台と南台が坂で結ばれ、石垣と土塀が独特の景観をつくっている一帯で、酢屋の坂・志保屋の坂という名の坂がその代表です。この「杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区」は、平成二十九年(2017年)十一月二十八日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。種別は武家町、面積は約十六・一ヘクタールです。杵築市は「正保以来の藩政期の地割を良好に留め、武家屋敷も良く残っています」と説明しています。正保、つまり英親が杵築へ入ったときの区割りが、そのまま今の町に残っているということです。
杵築市によれば、江戸時代まで存続した城跡が国史跡となり、隣接する城下町の一部が国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれている例は全国で数例しかなく、九州では初めてだといいます。城の記録が乏しい藩でありながら、城と町がセットで国の指定を受けた。豊後高田で消えた三万二千石が、杵築でどう続いたのかを見るには、この坂を歩くのがいちばんです。
その後
明治二年(1869年)六月二十日、親貴は版籍奉還により知藩事となり、明治四年(1871年)七月十五日に免官されました。杵築県は同年十一月に大分県へ編入されます。爵位は親貴ではなく、その子親信が明治十七年(1884年)七月八日に子爵を授かりました。親貴自身は明治十五年(1882年)八月二十日に没しています。
高田藩をもっと詳しく
初代・松平重直:小笠原家から来た婿養子
高田藩を開いた松平重直は、もとは信濃松本藩主・小笠原秀政の四男です。将軍の地位を退いて大御所となっていた徳川秀忠の命によって、能見松平家の松平重忠の婿養子に入りました。能見松平家は出羽上山(いまの山形県上山市)の藩主でしたが、寛永三年(1626年)に養父が亡くなって重直が当主となると、まもなく一万石を減らされて摂津三田三万石へ移されます。そして寛永九年(1632年)、七千石を加えられて豊前の竜王へ移り、寛永十六年(1639年)に高田城へ本拠を移しました。北の上山から、関西の三田を経て九州へと、十年足らずのあいだに日本列島を縦断したことになります。
重直は寛永十四年(1637年)に起こった島原の乱に従軍しています。また宇佐神宮に七百石を寄進するなど、信心の深い人物だったと伝わります。寛永十九年(1642年)に亡くなり、長男の英親が跡を継ぎました。
二代・松平英親と杵築での国づくり
英親は寛永二十年(1643年)正月に家督を継ぎ、わずか二年後の正保二年(1645年)に杵築三万二千石へ移りました。高田藩主としての期間は短く、英親が藩主として本格的に力を注いだのは杵築に移ってからです。
杵築では二十五か条の法令を定めて藩の政治の形を整え、寛文二年(1662年)からは検地を行って新田開発に力を入れました。平地の少ない領地だったため、故郷の三河から百人あまりの農民を招いて開いた田は「三河新田」と呼ばれ、また工芸作物、とくに藺草(いぐさ)の栽培をすすめました。明暦二年(1656年)には、府内藩主の日根野吉明が跡継ぎなく亡くなって家が断絶した際、府内城の受け取り役を務めました。
同じ時代の大きな出来事:島原の乱と、のちの島原藩領
重直が従軍した島原の乱は、高田の地にとって別の意味でも縁のある出来事でした。高田藩が杵築へ移ったあと、寛文九年(1669年)からこの地を幕末まで治めたのは、乱の舞台となった肥前島原の藩だったからです。
藩主家の子孫・明治以降
能見松平家は杵築藩主として明治を迎え、明治二年(1869年)の版籍奉還で最後の藩主・松平親貴が知藩事となりました。明治四年(1871年)の廃藩置県で杵築県となり、のちに大分県に入っています。家は華族に列し、明治十七年(1884年)に子爵となりました。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、入封時の三万七千石で数えたこの藩はおよそ八百七十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。なお高田藩は正保二年(1645年)に移っており、この規定より前の時代です。
参考:Wikipedia「松平重直」「松平英親」「杵築藩」「三田藩」など
場所・アクセス・地図
高田の現地を歩いた記録
高田藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。


