伊保藩の歩み
慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で東軍に与した岩崎城七千石の領主である「丹羽氏次」は、戦後に恩賞として三千石を加増されたことから一万石の大名として伊保藩を立藩しました。氏次は関ヶ原の戦いの翌年に死去し、後を子の「丹羽氏信」が継ぎました。
氏信は「大坂の陣」で武功を挙げたことなどから、寛永十五年(1638年)四月二十七日に二万石加増の上で、美濃岩村藩へ移封となり、伊保藩は廃藩となりました。そして、その所領は天領(幕府領)となりました。
天和元年(1681年)九月十五日、陸奥国浅川藩より「本多忠晴」が入封したことで、再び伊保藩が立藩されました。忠晴は大番頭、奏者番、寺社奉行などを歴任し、宝永二年(1705年)に五千石を加増され、宝永七年(1710年)に領地の配置替えが行なわれ遠江国相良藩に移ったため、伊保藩は再び廃藩となりました。
七つの国が見える城の、すぐそばで
伊保陣屋の跡は、豊田市保見町御山前にあります。豊田市の遺跡台帳では「伊保城(御山前城)」として登録されています。南北二段の平地のうち上段が主郭で、北側にかぎ形の土塁が残り、下段の南面には長さ十メートルほどの二段の石垣が残ります。ただし竹藪に覆われており、周囲は宅地と畑です。
宝永七年(1710年)に本多忠晴が遠江相良藩へ移ったあと、この地がどこの領地として幕末を迎えたのかは、確認できる資料を見つけられませんでした。豊田市博物館の解説によれば、幕末のこの地域には挙母藩のほかに旗本の渡邉半蔵家と鈴木家があったとされます。伊保村がそのどれに属したかまでは分かりません。
いっぽう近くの挙母藩は追えます。内藤家で、挙母一万石に遠江と美作を合わせて二万石。幕末の藩主は第七代内藤文成で、安政五年(1858年)に父の死を受け、わずか四歳で家督を継ぎました。藩政は家老たちの合議で運ばれます。
戊辰戦争では尾張藩を通じて新政府に恭順しました。文成は京都の御所に参内して勤王の意を表し、東海道軍の人馬と兵糧の賄い方として、駿府の警衛に一小隊を出しています。
挙母の城は七州城と呼ばれました。矢作川の氾濫を避けて童子山へ移り、天明二年(1782年)に築かれた城です。三河・尾張・美濃・信濃・伊賀・伊勢・近江の七つの国が望めたことによる名前でした。隅櫓は昭和五十二年に復興され、跡地はいま豊田市美術館と豊田市博物館になっています。
幕末の挙母藩について、もうひとつ。豊田市博物館の解説には、ペリー来航に際して旗本の渡邉半蔵家や鈴木家が幕府から警護を命じられ、挙母藩は独自に鉄砲の調練所を設けたとあります。三河の内陸にある小藩にまで、黒船の余波は届いていました。
最初の藩主・丹羽氏次—岩崎城の家
最初の伊保藩主・丹羽氏次は、尾張の岩崎城(いまの日進市)を本拠とした一色丹羽氏の当主です。天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いでは家康の本隊に加わり、留守の岩崎城を守った弟の氏重が羽柴方の大軍と戦って討ち死にしました。この働きが認められ、関ヶ原のあとの伊保一万石につながっています。氏次の子孫はのちに美濃岩村、越後高柳を経て播磨の三草藩主となり、幕末まで続きました(高柳藩の項にくわしく書いています)。
二度目の藩主・本多忠晴の家—陸奥泉藩の「赤玉本多」へ
再び伊保藩を立てた本多忠晴は、本多忠勝の孫・忠義の四男で、忠勝の曾孫にあたる人物で、奏者番や寺社奉行を務めた人物です。伊保から遠江の相良へ移ったこの家は、延享三年(1746)に陸奥の泉(いまの福島県いわき市)一万五千石へ移り、ここで明治を迎えました。
泉藩の本多家からは、寛政の改革のころ、松平定信を支えた本多忠籌(ただかず)が出ています。忠籌は老中格まで上り、行列の先頭に掲げた槍の穂先の飾りから「赤玉本多」と呼ばれて、諸大名が道を譲ったと伝えられます(泉藩)。幕末の泉藩は、慶応四年(1868)の戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍に攻められて陣屋を失いました。三河の伊保の小さな陣屋から始まった家は、奥州の戦いの中で徳川の時代の終わりを迎えたのです。
田沼の相良の前に—本多忠晴と伊保藩
忠勝のひ孫
伊保藩主・本多忠晴は、寛永十八年(1641年)生まれで、本多忠勝のひ孫にあたります(忠勝、忠政、忠義、忠晴)。兄の忠以が陸奥浅川で一万石を分けられて藩を開き、忠以が亡くなると忠晴が継ぎました。長兄の忠平からも二千五百石を分けられています(石川藩・足助藩も同じ一族です)。家格は譜代です。
分家の子が本家の主に
忠晴は元禄五年(1692年)に大番頭、元禄十五年に奏者番と寺社奉行を兼ねました。長男の忠直は、本家の大和郡山藩十二万石の藩主になっています。分家の子が本家を継いだのです。ただ、郡山の本多家は幼い藩主の早死にが続き、享保八年(1723年)に絶えてしまいました。忠晴の家督は孫の忠通が継いでいます。
相良藩の初代
宝永七年(1710年)、忠晴は遠江の相良へ移り、相良陣屋に入って相良藩の初代になりました。のちに田沼意次が相良城を築くのは、宝暦八年(1758年)以降のことです。田沼の相良には、本多家の時代という前史があったのです。忠晴の家はその後、陸奥の泉へ移り、泉陣屋の裏門はいまもいわき市泉町の民家に残っています。
伊保には、もう一つの物語
伊保藩には本多家より前に丹羽家の時代があり、二代の丹羽氏信の妻は三河水野藩の水野忠胤の長女でした。氏信は大坂夏の陣で首十九を挙げましたが、諸大名を見下すような言動があり、なかなか恩賞をもらえなかったといいます。三河の小さな藩は、こうした人の縁で周りの藩とつながっていました。



