窪田藩/土方家2万石:土方雄隆 跡目相続のお家騒動により幕末前に改易

窪田藩 土方家2万石 最後の藩主 土方雄隆
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窪田藩の歩み

天和三年(1683年)五月十三日、窪田へ向かうことになった藩主の土方雄隆は、病気を理由に、腹違いの弟の土方貞辰に家督を譲りたいと幕府に願い出ました。ところが家臣の中に、土方雄信の子である土方内匠を跡継ぎに立てようとする一派があらわれ、跡目をめぐるお家騒動になります。

争いは、雄隆の側室が鉄砲で撃ち殺される事件にまで発展しました。これを知った幕府は、貞享元年(1684年)七月二十二日に窪田藩を取りつぶし、雄隆の身柄は越後村上藩主・榊原政邦に預けられました。窪田の領地は、その後幕府の直轄地になります。

ただし、一族の土方雄賀の家は残ることを許され、旗本として15代続き、明治を迎えました。

廃藩のあと—磐城平城が燃えた夏

窪田藩は元和八年(1622年)に土方家が立て、貞享元年(1684年)に土方雄隆の代の御家騒動で改易となりました。所領は幕府直轄となり、雄隆は越後村上藩に預けられます。

幕末の窪田村は棚倉藩の飛地でした。菊多郡—いまのいわき市南部は、泉藩三十四村・棚倉藩二十一村・磐城平藩七村・湯長谷藩五村といった具合に細かく分かれており、窪田はその棚倉藩領に入っていました。

そしてこの地は、慶応四年(1868年)夏の磐城の戦いの進路そのものになります。

六月十六日、新政府軍およそ千名が平潟に上陸しました。先発隊が住民から小舟を集めて大部隊を揚げ、守っていた仙台藩兵は退きます。二十日には岡山藩三百二名、柳河藩三百十七名の第二陣が到着。二十八日には泉藩と湯長谷藩が同じ日のうちに攻略されました。

翌二十九日、磐城平城の長橋口で激戦となります。磐城平藩と仙台藩が応戦し、夕方には引き分けとなりました。藩主・安藤信正はいったん城を退いています。

そして七月十三日の総攻撃。このとき城内の弾薬は残り二千発、砲弾も乏しくなっていました。城代の上坂助次が籠城して死ぬと口にすると、援軍として来ていた相馬の相馬将監胤真が「ならば自分も残る」と応じます。その一言に動かされた上坂が、撤退を決断しました。一行は大手門から平窪へ二キロほど退き、深夜に火をかけて磐城平城は焼け落ちます。米沢藩の援軍が来なかったことが決め手でした。

藩主の安藤信正は、文久二年正月十五日の坂下門外の変で襲われて負傷し、老中を辞して隠居謹慎となった人です。戊辰では隠居の身でありながら実質の指導者で、降伏状も信正の名義で出されました。

磐城平城の跡は本丸跡地が公開され、内堀の名残である丹後沢は公園として整備されています。松ヶ岡公園の安藤信正の銅像は大正十一年の建立でしたが、昭和十九年に金属供出で撤去され、昭和三十七年に再建されました。

家康暗殺の疑いから始まった土方家

窪田藩の土方家は、織田信雄の重臣から豊臣秀吉に仕えた土方雄久の家です。雄久は慶長四年(1599)、前田利長らとともに徳川家康の暗殺を企てたという疑いをかけられて常陸の佐竹家に預けられましたが、翌年の関ヶ原の戦いの前に前田利長を東軍につかせる役目を果たして許され、越中の布市で大名となりました(布市藩。加賀の野々市とする辞典もあります)。その後、能登石崎、下総多古を経て、元和八年(1622)に陸奥の窪田へ移されます。

窪田の本家は御家騒動で改易されましたが、雄久の長男・雄氏が立てた伊勢の菰野藩は、明治まで大名として続きました。家康の暗殺を疑われた武将の家は、一方は陸奥で騒動のうちに消え、一方は伊勢で幕末を迎えたことになります。

勿来の関のほとり

窪田のある菊多郡は、古代の奥州への入口にあたる土地で、近くには歌枕として名高い「勿来(なこそ)の関」の伝承地があります。「勿来」は「来るなかれ」の意味で、蝦夷の南下を防ぐ関所だったともいわれます。平安時代の武将・源義家がこの関で「吹く風を勿来の関と思へども道もせに散る山桜かな」と詠んだと伝えられ、多くの歌人がこの関を題材にしました。実際の関の場所ははっきりしていませんが、いわき市勿来町には関跡とされる場所が整備されています。

幕末の慶応四年(1868)、その「来るなかれ」の地に、平潟から上陸した新政府軍が次々と進んできたのでした。

菊多藩と呼ばれた外様の小藩

用水と菩提寺

窪田藩は「菊多藩」とも呼ばれる外様の小藩で、土方家3代・62年で絶えました。2代の雄次は寛永10年(1633)、鮫川沿いに五箇村灌漑用水と酒井用水を造って新田を開き、延宝5年(1677)には菩提寺の大高寺を修復しています。

雄隆の家督と分知

雄隆は雄次の次男で、兄が病弱だったため跡継ぎとされました。延宝7年(1679)11月に家を継ぎ、同時に弟の雄賀へ2千石を分けたため、藩の石高は1万8千石になりました。日本人名大辞典は生没年を1641〜1691としています。

騒動の処分

お家騒動の処分は大名家の縁戚にも及びました。雄隆の義弟である筑後松崎藩主・有馬豊祐は、仲裁を頼まれながら放っておいたとして改易されたとされます。弟の雄賀は改易の5年前から分家の旗本となっており、この家が土方家の名を伝えました。正室は小出吉重の娘です。

考察:用水は残り、藩は消えた

2代目が引いた用水は、藩が絶えた後も田を潤し続けました。家の争いで藩が消えても、土地に刻んだ仕事は残る。窪田藩の62年は、そのことを静かに示しているように思います。

場所・アクセス・地図

福島県いわき市勿来町窪田伊賀屋敷
〒979-0141 福島県いわき市勿来町窪田伊賀屋敷123

参考資料:Wikipedia日本語版「窪田藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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