【藩名】
石川藩
【説明】
石川藩は寛文2年(1662年)、「本多忠勝」の曾孫「本多忠平(白河藩主)」が襲封にあたり次弟の「本多忠利」に陸奥石川郡のうち16か村1万石を分与して成立した白河藩の支藩です。天和元年(1681年)9月に三河国挙母藩へ移封となったためわずか19年にして石川藩は廃藩となりました。
十九年で消えた白河藩の支藩
石川藩は寛文二年(1662年)、本多忠勝の曾孫にあたる白河藩主の本多忠平が家督を継ぐにあたり、次弟の本多忠利へ陸奥石川郡のうち十六か村一万石を分けて成立した支藩です。天和元年(1681年)九月に忠利が三河の挙母藩へ移されて、わずか十九年で廃されました。
陣屋がどこに置かれたかを示す資料は、今回確かめられませんでした。石川町下泉という地名が出てくることがありますが、これは三芦城(石川城)の所在地です。混同しやすいので注意が要ります。
武士のいない町
石川町の近世は、支配が目まぐるしく変わったことに特徴があります。戦国の石川氏が去ったあと、会津藩領、白河藩領、越後高田藩の飛び地と移り、最後は幕府領となりました。研究者の整理によれば、この町には武士が住まず、百姓と町人の暮らす土地であり続けたといいます。
幕末の石川郡がどの代官所の支配だったかは、はっきりしません。近くの塙代官所は享保十四年(1729年)の開設で、公式の説明では白河郡六十七か村などを管轄しており、石川郡の名は挙がっていません。ただし塙代官所は当初、石川郡の竹貫(現在の古殿町)に置かれてから塙へ移っています。
三芦城と、八幡山の磐座
石川町の中心にあるのが三芦城の跡です。標高三百四十二メートル、比高およそ五十メートルの八幡山に築かれ、北須川が巡って三方が急な崖になっています。
平安後期に源有光、のちの石川有光が築いたと伝わり、以後二十五代五百二十八年にわたって石川氏の居城となりました。天正十八年(1590年)の奥州仕置で、小田原へ参陣しなかったことを理由に石川昭光が改易されて廃城となります。昭光は甥にあたる伊達政宗の家臣となり、角田城主となりました。
この八幡山の山頂に石都々古和気神社が鎮まります。全山に花崗岩の巨石が連なり、古代から祭祀の場であった山です。応永三十年(1423年)に石川持光が寄進した銅製の鰐口が福島県の重要文化財になっています。城跡には石川町教育委員会の案内板が立ちます。
自由民権運動発祥の地
石川の名が近代史に出てくるのは、戊辰戦争のすぐあとです。
慶応四年の白河口の戦いは閏四月二十日から七月十四日まで続き、六月二十四日には板垣退助が八百の兵を率いて南東へ進み、棚倉藩の城を落としています。石川は白河と棚倉のあいだの北にあたり戦域のすぐ近くですが、石川郡内で戦闘があったことを示す記録は確かめられませんでした。
むしろ石川が知られるのは、そのあとです。三春藩を討幕へ導いた河野広中は、維新後に石川の区長となり、明治八年、石川町で「有志会議」を起こしました。のちの石陽社です。土佐の立志社からわずか一年数か月後に東北で生まれた政治結社で、石川町はこれをもって自由民権運動発祥の地を称しています。武士がおらず、困窮した農民の打ちこわしが相次いだ土地柄が、その土壌になったと説明されています。河野は明治十五年、県令の三島通庸と対立して福島事件で捕らえられ、のちに衆議院議長と農商務大臣を務めました。
なお石川町は苗木、田上と並ぶ日本三大ペグマタイト産地として知られ、平成七年に福島県の天然記念物に指定されています。ただし採掘が行われたのは明治後期以降で、幕末にはさかのぼりません。
【石川藩・場所・アクセス】
福島県石川郡石川町下泉
【石川藩地図】

