泉藩の歩み
第6代藩主「本多忠紀」は幕末に寺社奉行・奏者番として参与します。そして「戊辰戦争」では旧幕府軍に与して新政府軍と戦ったため、官位剥奪の上、二千石を召し上げられて強制隠居を余儀なくされました。磐城の戦いでは平藩と湯長谷藩、仙台藩の援軍と共に平潟に上陸した新政府軍と交戦したが平城の落城後に恭順しました。

その後、養子の「本多忠伸」が家督を継いで泉藩主となり、明治二年(1869年)の「版籍奉還」で泉藩知事となります。そして明治四年(1871年)の「廃藩置県」で泉藩は廃藩となりました。
同じころの日本—寛政の改革の中身
老中・松平定信 泉藩主の本多忠籌が老中格として幕政に加わった天明・寛政のころ、幕府の改革を率いたのは老中首座の松平定信でした。定信は天明の飢饉と田沼時代の後始末に取り組み、寛政元年(1789)には旗本・御家人の借金を帳消しにする「棄捐令」を出し、各地に米を蓄えさせる「囲米」を命じています。
学問と出版の取り締まり 翌寛政二年(1790)には、幕府の学問所で朱子学以外の学問を教えることを禁じる「寛政異学の禁」を出しました。また、政治を風刺する本や華美な風俗を取り締まり、出版にも厳しい目を向けます。忠籌は定信の盟友として、こうした改革を支えた一人でした。
場所・アクセス・地図
〒971-8185 福島県いわき市泉町4-16-7
泉藩の成り立ち ― 磐城に分かれた小藩
泉藩(いずみはん)は、陸奥国磐城の地に置かれた小藩です。寛永十一年(1634)、磐城平藩主・内藤政長の遺命により、末子の内藤政晴が二万石を分けられて立藩したことに始まります。磐城平の内藤本家から分かれた、いわば兄弟の藩でした。以後、泉の地には三つの大名家が入れ替わりながら、幕末までその小さな城下を営んでいくことになります。
三つの大名家 ― 内藤・板倉・本多
泉藩を治めたのは、内藤・板倉・本多の三家です。まず内藤家が三代続いたのち、元禄十五年(1702)に上野安中へ転じ、代わって板倉家が一万五千石で入りました。その板倉家も延享三年(1746)に遠江相良へ移り、入れ替わりに本多家が一万五千石で入封します。以後は本多家が幕末まで泉を治めました。小藩がこうして次々と大名家を替えていくのは、江戸幕府の巧みな大名統制の一面でもありました。
名君・本多忠籌と寛政の改革
本多家のなかで特筆すべきは、二代・本多忠籌です。財政難に苦しむ藩の立て直しに手腕を発揮した忠籌は、その能力を老中・松平定信に見込まれ、寛政の改革では老中格として幕政にも参与しました。地方の小藩の主が中央政界で活躍したのは異例のことで、泉藩の名を高からしめました。忠籌の代に藩は二万石に加増されています。
江戸期のできごと ― 藩校「汲深館」
本多家の治世下、五代・本多忠徳の時代には、藩校「汲深館」が設けられました。文武を奨励し、藩の気風を一新して、学問と文化の興隆が図られたと伝わります。二万石ほどの小藩でありながら、教育に力を注ぐその姿勢は、幕末に藩士たちが時代の荒波に立ち向かう素地を養いました。
幕末の泉藩 ― 同盟に殉じて
幕末、六代藩主・本多忠紀は、寺社奉行や奏者番として幕政に参与した幕府方の大名でした。戊辰戦争では、その立場のまま新政府軍と戦い、奥羽越列藩同盟の一員として交戦します。しかし敗れて、忠紀は官位を剥奪され、二千石を召し上げられたうえで強制的に隠居させられました。養子の忠伸が家督を継ぎ、明治二年の版籍奉還で知藩事となったが、明治四年の廃藩置県で泉藩は廃止されました。
泉城址を歩く ― 「赤玉本多」の碑
令和六年(2024)四月、泉藩の陣屋跡(泉城址)を訪ねました。いわき市泉町の住宅地の一角に、「泉城址」と刻まれた標柱と、陣屋の歩みを記した「泉城趾の変遷」の碑が立っています。碑は平成五年(1993)三月に地元の協議会が建てたものです。

同じ場所には、本多忠籌にちなむ「赤玉本多」の碑もあります。碑文によると、忠籌は登城の際に二本の槍を行列の先頭に立てることを許され、そのうち一本の穂先に、太陽をあらわす赤い玉「朱天目」を飾っていました。朝日に映える赤玉は見事で、ほかの大名は遠くにそれを見ると、行列を道の脇に寄せて道を譲ったとも伝えられています。碑の上に載った赤い石の玉は、その槍飾りを表したものです。

なお碑文では忠籌が「老中に就任」したとありますが、正式な地位は老中に準じる「老中格」でした。小藩の藩主が幕政の中枢に加わったことを、地元の人たちが誇りとして語り継いできたことがうかがえます。
この地の戊辰戦争の流れは、磐城の戦いとは?平潟に上陸した新政府軍が磐城平城を落とした戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすくで、進軍図とあわせて解説しています。
磐城平城・湯長谷陣屋・泉陣屋の跡を実際に歩いた記録は【現地取材】いわきの三藩を歩く—磐城平城・湯長谷陣屋・泉陣屋に残る戊辰戦争の跡で紹介しています。
泉藩をもっと詳しく
領地のようす
泉藩は陸奥国菊多郡の泉(今の福島県いわき市泉町)に藩庁を置き、菊多・磐前・磐城の三つの郡に領地を持つ譜代の小藩でした。内藤家二代の政親は寛文八年(1668年)に居館を泉へ移し、となりの滝尻に城下町を造ったとされます。藩主は城を持たない陣屋住まいでしたが、家格は「城主格」とされ、江戸城では帝鑑間に詰めていました。陣屋の裏門は、いまも泉町の民家に移されて残っています。
のちに本多忠籌が加増された五千石は、武蔵国埼玉郡と上野国勢多郡にありました。磐城から遠く離れた関東にも、飛び地の領地を持っていたことになります。
本多家の先祖と、泉へ来たわけ
幕末まで泉を治めた本多家は、徳川四天王の一人・本多忠勝の血を引く家です。忠勝の長男・忠政の三男が本多忠義で、その四男・忠晴が陸奥浅川藩を継いだのち、宝永七年(1710年)に遠江国相良へ移りました。忠晴の孫にあたるのが、泉藩本多家の初代・本多忠如です。
忠如が相良から泉へ移されたのは延享三年(1746年)九月のことです。遠江を荒らした「日本左衛門」と名のる盗賊の取り締まりがおろそかだったとされたのが理由でした。
本多忠籌の財政立て直し
忠如の子・忠籌は宝暦四年(1754年)、十六歳で家督を継ぎ、すぐに藩の改革にとりかかりました。天明元年(1781年)までに借金を整理し、一万両の蓄えを作ったとされます。江戸後期の経世家・佐藤信淵も、著書『経済要録』でこの手腕をほめています。
その力を見込まれた忠籌は、天明七年(1787年)に若年寄、翌年に側用人となり、老中格に進んで寛政の改革を支えました。加増を受けて泉藩が二万石になったのは、このときです。忠籌のあとは忠誠、忠知、忠徳、忠紀、忠伸と続き、本多家は七代にわたって泉を治めました。
藩の終わり
戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わった責めを問われ、泉藩は明治元年(1868年)に二千石を減らされて一万八千石となりました。明治四年(1871年)の廃藩置県で泉藩は泉県となり、平県、磐前県を経て福島県に入りました。最後の藩主・忠伸は、本多忠行の長男として嘉永五年(1852年)に生まれ、忠紀の養子となって家を継いだ人で、明治三十六年(1903年)三月五日に亡くなっています。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、二万石のこの藩はおよそ四百七十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「泉藩」「本多忠如」「本多忠晴」「本多忠義」「本多忠政」「本多忠伸」、コトバンク「泉藩」



