岩崎藩(久保田藩支藩)/佐竹家2万石:佐竹義諶 戊辰戦争では本藩とともに新政府軍側で戦った岩崎藩

【藩名】
岩崎藩(久保田藩支藩)

【説明】
幕末「王政復古の大号令」により江戸定府の必要がなくなると、8代藩主「佐竹義諶」は国入りし、慶応4年(1868年)3月、河辺郡椿台に「椿台陣屋」を構えることになりました。

このため藩士は「椿台藩」を自称しました。しかし同年7月に戊辰戦争(秋田戦争)が勃発したため、陣屋を建設する暇もなく、本藩の久保田藩とともに奥羽鎮撫隊(新政府軍)側に立って庄内藩兵と交戦し、椿台は激戦地となった(椿台の大会戦)。

明治2年(1869年)6月、改めて岩崎へ移転して「岩崎藩」と改称し、周辺に初めて所領を持ちました。明治4年4月に「岩崎藩陣屋」を構えたが、同年7月の「廃藩置県」のため、僅か3ヶ月しか存続しなかったです。

目次

本家・久保田藩との関係

岩崎藩は、出羽の久保田藩(秋田藩)/佐竹家20万石の支藩で、佐竹家の分家が二万石を領し、幕末に岩崎(現在の秋田県湯沢市)に藩庁を構えました。

戊辰戦争では、岩崎藩は本家の久保田藩とともに、奥羽越列藩同盟を離れて新政府軍の側で戦いました。周囲を同盟軍に囲まれた秋田で、宗家と苦しい戦いをともにしています。最後の藩主は佐竹義諶(よしあきら)です。久保田・佐竹一門の支藩でした。

百七十年間、領地を持たなかった藩

岩崎藩には、ほかの藩にない変わった来歴があります。成立から百七十年あまり、領地も陣屋も持たなかったのです。

もとは元禄三年(一六九〇)、久保田藩三代の佐竹義処が弟の義長に二万石を分けたことに始まります。元禄十四年に幕府から支藩として公認され、義長の官位から佐竹壱岐守家と呼ばれました。ただしこの藩は江戸定府で、秋田に陣屋を構えたことがありません。石高は帳簿の上の二万石でした。

その状況が動くのが幕末です。慶応四年(一八六八)、藩主の佐竹義諶(よしつま)が河辺郡椿台に椿台陣屋を築き、はじめて秋田へ下りました。明治二年に居館を雄勝郡の岩崎村へ移して藩名を岩崎藩と改め、明治三年三月に雄勝郡三十五か村・高二万石が確定します。

つまり「岩崎藩」という名で存在したのは、実質わずか一年か二年です。明治四年七月の廃藩置県で岩崎県となり、すぐに秋田県へ編入されました。日本でもっとも短命な藩のひとつと言えます。

築いたばかりの陣屋の地が、秋田戦争の決戦場になった

そしてここからが、この藩のいちばんの見どころです。

慶応四年、久保田藩は奥羽越列藩同盟から離脱して新政府側につきました。七月四日、同盟からの離脱を決めた久保田藩は仙台藩の使節ら十一名を殺害し、城下の五丁目橋に首を晒します。これが秋田戦争の引き金になりました。

報復は南から来ます。庄内軍は八月上旬に雄勝峠を突破して湯沢を占拠し、八月十一日には横手城を落として城下まで焼きました。羽州街道沿いの岩崎は、まさにその通り道にあたります。

そして九月、久保田城まで三里の椿台で決戦が行われました。庄内軍が三手に分かれて総攻撃をかけ、佐賀藩の援軍を得た新政府軍がこれを撃破します。同盟軍はここで大敗し、仙台と米沢の降伏によって奥羽越列藩同盟は瓦解しました。

その椿台こそ、この藩が慶応四年にはじめて構えた陣屋の地でした。百七十年ぶりに秋田へ下りて陣屋を築いた、その場所が、そのまま秋田戦争最大の決戦場になったのです。

藩主の義諶は新政府軍として矢島口で庄内藩と戦って武功をあげています。もっとも、この時点ではまだ藩名は秋田新田藩であり、岩崎に藩庁が置かれるのは戦後のことです。戦ったときにはまだ岩崎藩ではなかったという時系列のねじれが、この藩の面白いところです。

十三歳の知藩事

明治二年五月、義諶が隠居して養子の佐竹義理が家督を継ぎ、知藩事となりました。義諶は翌明治三年四月に三十四歳で世を去っています。

義理には、短い藩政のなかでこんな話が残ります。明治四年、十三歳で領内を巡視した際、孝行者として知られた後藤逸女を訪ねて心を動かされ、一家に扶持を与えて「愛日廬」の額を自ら書き与えたというものです。この額はいまも湯沢市の指定文化財として伝わります。

岩崎城は中世の山城で、いまは千年公園として整備されています。陣屋の跡は城の南麓にあたり、遺構は残りません。ただし八幡神社の拝殿の唐破風は、陣屋の建物からの移築と伝えられます。義理は明治十七年に子爵となり、のちに貴族院議員を務めました。

【場所・アクセス・地図】

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