七戸藩の歩み
七戸藩は政庁を七戸城(青森県上北郡七戸町)とする盛岡藩の支藩大名です。別名を「盛岡新田藩」と呼ばれています。

「戊辰戦争」においては宗家盛岡藩とともに「奥羽越列藩同盟」に与したことより、明治元年(1868年)(明治元年)千石の削減と当時の藩主「南部信民」が隠居することになりました。
明治二年(1869年)、明治政府は「南部信民」の遺領一万石を弟である「南部信方」に改めて与え、七戸城の改修や領内整備などを行わせて「七戸藩」を再興させました。その後は版籍奉還や廃藩置県により七戸藩は廃藩されました。
定府の大名として始まった七戸藩
七戸藩は、文政二年(1819年)十二月に成立した盛岡藩の支藩です。もともと五千石の旗本だった南部信鄰が、本家の盛岡藩主である南部利敬から新たに六千石を加えられ、あわせて一万一千石の大名に列しました。ただし領地は本家の領内から分けられた内分で、藩主は江戸に常住する定府大名として出発しています。
そのため、立藩から長く七戸には藩庁がありませんでした。文久三年(1863年)になってようやく、七戸村の隣にあたる三木谷村(現在の十和田市)に陣屋の貸与を受けています。七戸城跡に藩庁が置かれるのは、実は明治二年になってからのことでした。
野辺地戦争—津軽と南部が撃ち合った日
戊辰戦争では、本家の盛岡藩が家老の楢山佐渡のもとで藩論を奥羽越列藩同盟にまとめ、新政府側に転じた久保田藩(秋田藩)へ侵攻します。七戸藩もこれに従いました。
その象徴が、明治元年(1868年)九月二十三日の野辺地戦争です。未明、小湊に駐屯していた弘前藩(津軽藩)と黒石藩の兵およそ百八十人が三隊に分かれて動き、うち六十人が野辺地の馬門村へ侵入して火を放ちました。迎え撃ったのが、盛岡藩の安宅正路が率いる七戸隊です。隊長の小島左近らを討ち取られた津軽勢は撤退し、戦いは両藩の私闘という形で決着しました。戊辰戦争の事実上最後の戦闘の一つに数えられます。
本家の処分と、七戸藩の一千石
九月二十四日に盛岡藩が全面降伏すると、処分は重いものとなりました。十二月、藩主の南部利剛は隠居差控となり、盛岡藩領二十万石は没収されて、家名を継いだ南部利恭は白石十三万石へ移されます。盛岡への復帰が認められるのは、上納金七十万両を条件とした明治二年七月のことでした。
七戸藩も一千石を削られて一万石となり、藩主の南部信民は隠居を命じられます。跡を継いだのが弟の南部信方で、七戸城の改修や領内の整備にあたりました。
七戸城跡と、南部の馬
七戸城跡は昭和十六年十二月に国の史跡に指定されています。根城南部氏の南部政光が元中九年(1392年)に築いたと考えられる城で、天正十九年(1591年)の九戸一揆で七戸家国が敗れて廃城となり、寛文四年(1664年)からは盛岡藩の七戸代官所が置かれました。現在は一部が柏葉公園として整備されています。
七戸をふくむ糠部の地は、古代から馬の産地として知られてきました。盛岡藩は領内九か所に「南部九牧」と呼ばれる藩営の牧場を置き、南部馬を育てています。一方で冷害の打撃も繰り返し受けた土地でもありました。元禄八年におよそ五万人、宝暦五年に四万九千余人、天明三年から四年にかけて餓死四万八百余人という数字が、藩の記録に残されています。
同じころの日本—伊能忠敬の日本地図
七戸藩の生まれたころ 七戸藩が盛岡藩から分かれて大名として認められた文政年間のはじめ、日本では一つの大事業が仕上げに向かっていました。伊能忠敬による全国の測量です。忠敬は寛政十二年(1800)の蝦夷地の測量を手始めに、十七年をかけて日本の海岸線を歩いて測りました。
大日本沿海輿地全図 忠敬は文政元年(1818)に亡くなりますが、その弟子たちが測量の成果をまとめ、文政四年(1821)に「大日本沿海輿地全図」として幕府に納めました。北の海に外国船が姿を見せ始めた時代、日本の正確な姿を描いた地図は、国の守りにも欠かせないものでした。南部の地もまた、こうした北の海防の最前線にありました。
旗本から大名へ—七戸藩の南部家と、アメリカに留学した最後の藩主
五千石の旗本・麹町南部家
七戸藩の南部家の始まりは、元禄七年(1694年)にさかのぼります。盛岡藩五代藩主の南部行信が、弟の南部政信に五千石を分けて旗本の家を立てさせました。江戸の麹町に屋敷があったことから「麹町南部家」とも呼ばれます。宝永四年(1707年)には知行地を本家に返し、米で受け取る形に替えています。この旗本の家が、のちに七戸藩一万一千石になりました。
藩祖・南部信鄰と本家の騒動
藩祖の南部信鄰は、安永五年(1776年)に五千石の旗本・南部信喜の子として生まれました。文政三年(1820年)に本家の盛岡藩主・南部利敬が亡くなると、幼い跡継ぎの利用を補佐するため盛岡へ下っています。ところが翌年八月に利用が急死し、本家は身代わりを立てて家を継がせるという異例の事態になりました。信鄰がこれにどこまで関わったかはわかっていません。信鄰自身も同じ年の十一月、四十六歳で亡くなっています。
最後の藩主・南部信方はボストンで学んだ
最後の七戸藩主・南部信方は、盛岡藩主・南部利剛の三男です。明治九年(1876年)にアメリカへ渡り、ボストン大学で学びました。帰国後は大学予備門に入り、華族女学校の教職や、農商務省山林局・林業試験場の嘱託を務めています。晩年まで菌類の研究と植物の病気の研究に打ち込んだ、学者肌の元大名でした。明治十七年(1884年)に子爵となり、大正十二年(1923年)に亡くなっています。
廃藩、そして青森県へ
七戸藩は文久三年(1863年)、隣の三木谷村(いまの十和田市)に陣屋を借り受けています。廃藩置県のあと、七戸藩は七戸県となり、弘前県を経て青森県に組み込まれました。
定府の大名と、南部一門の縁組
七戸藩の南部家は外様で、文政二年(1819年)に一万一千石の「定府大名」として立藩しました。定府とは、参勤交代をせず江戸に住み続ける大名のことです。安政五年(1858年)には城主格に上げられています。藩主の信民は南部一門の三戸家から養子に入り、信誉の正室は三日月藩主・森長義の娘でした。本家の盛岡藩を中心に、南部一門の中で家をつないでいったことがわかります。
北の小藩の殿様は、世界とつながっていた
江戸に住み続けた定府の大名が、幕末には野辺地戦争で津軽と撃ち合い、最後の藩主はボストンで菌類の研究に打ち込む。七戸藩の殿様たちは、北の小藩の主でありながら、江戸、そして世界とつながっていました。一万一千石という数字だけでは見えない広がりを持つ家だったと思います。
場所・アクセス・地図
青森県上北郡七戸町
本家・盛岡藩との関係
七戸藩は、陸奥の盛岡藩(南部藩)の支藩です。南部家の分家が一万一千石を領しました。
戊辰戦争では、七戸藩は宗家の盛岡藩とともに奥羽越列藩同盟に加わって戦いました。その結果、敗戦後は本家と同じく減封の処分を受けています。最後の藩主は南部信民です。東北の雄藩・南部の運命をともにした支藩でした。



