| 福海丸 | |||
| 藩名 | 久保田藩 | ||
| 藩主 | 佐竹義堯 | ||
| 船種 | スクーナー船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | スケッチ(伝) | ||

福海丸(ふくかいまる)は、出羽の久保田藩(秋田藩・佐竹家)の船として当サイトの軍艦一覧に載せている帆船です。二本マストのスクーナー型で、機関を持たない木造船とされています。ただし、この船名を久保田藩の船として記した資料は、いまのところ見つけられていません。このページでは、確かめられたことと、確かめられなかったことを分けて書きます。
福海丸について分かっていること
当サイトの一覧では、福海丸を久保田藩のスクーナー型の帆船とし、備砲はなく、当時のスケッチが残る船としています。いっぽう、建造や購入の年、大きさ、どのように使われ、いつ姿を消したのかといった記録は、自治体や博物館の公開資料のなかには見あたりませんでした。船名そのものの裏づけが取れていない状態です。
なお、福海丸を「幕府がオランダに発注した最新の軍艦で、艦長は榎本武揚、箱館戦争中に江差沖で座礁した」と説明するものを見かけますが、これは開陽丸の経歴です。開陽丸はオランダのドルトレヒトで造られ、慶応元年九月十四日に進水した排水量二千五百九十トン、大砲二十六門の木造の軍艦で、明治元年十一月十五日の夜、江差の沖で猛吹雪に押されて座礁しました。機関も大砲も持たない小さな帆船である福海丸とは、まったく別の船です。
久保田藩が確かに持っていた船
この藩が洋式の船を持っていたことは、別の二隻からはっきり分かります。一隻は陽春丸で、もとはアメリカ海軍の蒸気砲艦サガモアでした。もう一隻は高雄丸で、こちらももとはアメリカ海軍のアシュロットという船です。慶応四年三月に久保田藩が買いましたが、同じ年の十月二十七日に箱館で榎本の側に捕らえられて第二回天丸と改められ、翌年三月の宮古湾海戦で傷ついて、九戸の港で自ら焼かれました。買って半年あまりで敵の船になった計算です。
帆船は機関も石炭もいらず、藩にとって安く使いやすい運び手でした(帆船と蒸気船の違い)。スクーナー型は縦帆を主に使い、少ない人数で動かせる帆装です(帆の張り方・軍艦の格)。福海丸が実在したとすれば、こうした藩の荷や人を運ぶ船だったと考えられます。
持ち主の久保田藩—列藩同盟からの離脱と秋田戦争
戊辰戦争のときの久保田藩主は佐竹義堯です。義堯は文政八年七月二十七日の生まれで、先代の佐竹義睦が安政四年七月一日に十九歳で亡くなったため、岩崎藩の藩主から末期養子として宗家に入りました。
久保田藩(佐竹家二十万石)は、戊辰戦争のはじめに奥羽越列藩同盟に加わりましたが、慶応四年(1868年)七月に同盟を離れて新政府側につきました。同盟の使者として秋田に来ていた仙台藩士たちを、藩の勤王派が斬ったことがきっかけです。そのため久保田藩は周りを同盟の藩に囲まれ、庄内藩・盛岡藩・仙台藩などの軍に攻め込まれます(秋田戦争)。佐賀藩などの援軍が海路で駆けつけ、藩はなんとか持ちこたえましたが、領内の多くが戦場となりました。
参考資料:Wikipedia日本語版「幕府海軍」「開陽丸」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。



