福島県棚倉町。深い緑と静かなお濠に囲まれた棚倉城跡(亀ヶ城)は、幕末の戊辰戦争でわずか半日のうちに落城・焼失した、悲劇の城です。二代将軍・徳川秀忠の命で築かれ、幕末には「左遷の城」とも呼ばれたこの城には、白河口の激戦とも深く結びついた濃いドラマが刻まれています。今回はその現地取材の記録です。
将軍の命で築かれた城 ― 丹羽長重と棚倉城
現地の案内板によれば、棚倉城は二代将軍・徳川秀忠の命を受けた丹羽長重(にわ ながしげ)が、寛永二年(一六二五年)に築城を始めた平城です。堀と土塁を幾重にもめぐらせた要害でしたが、長重は寛永四年(一六二七年)に白河へ移り、そこで白河小峰城を石垣造りの近世城郭へと改修します。つまり棚倉城と白河小峰城は、ともに丹羽長重の手になる兄弟のような城なのです。以後、棚倉城には内藤氏をはじめ大名家が入れ替わり、城主は約二百五十年で十六代を数えました。今も本丸跡の広場とお濠、そして樹齢を重ねた大ケヤキが、往時の姿を静かに伝えています。


「左遷の城」 ― 老中・阿部正外の転封
幕末の棚倉藩を治めていたのは阿部家十万石でした。じつはこの阿部家、もとは隣の白河藩主です。当主の阿部正外(あべ まさとう)は幕府の老中を務めた大物でしたが、兵庫開港をめぐる問題で強硬な立場をとって失脚し、慶応二年(一八六六年)に白河から棚倉へ懲罰的に転封させられました。棚倉城が「左遷の城」と呼ばれるのは、この一件に由来します。そして戊辰戦争を迎えたのは、その跡を継いだ阿部正静(あべ まさきよ)の代でした。


戊辰戦争 ― 白河口へ出払い、半日で落城
奥羽越列藩同盟に加わった棚倉藩は、藩主・正静と家老阿部内膳(あべ ないぜん)が精鋭を率いて、戊辰戦争最大の激戦地となった白河口の戦いへと出陣します。内膳は「十六人組」の隊長として奮戦し、新政府軍から恐れられましたが、慶応四年(一八六八年)五月一日、金勝寺で戦死しました。
主力を白河口へ送り出していたため、肝心の棚倉城はほとんど守備兵がいない状態でした。白河を制した板垣退助率いる新政府軍は、次いで棚倉へ総攻撃をかけます。抵抗もむなしく、慶応四年六月二十四日、棚倉城はわずか半日で落城・焼失しました。
なお、同盟の一角だった三春藩が新政府へ降伏したのは同年七月二十六日で、棚倉落城よりも後のことです。棚倉城が短時間で落ちた直接の原因は、あくまで主力が白河口へ出払っていた守備の手薄にありました。三春の降伏はそれに続いて、二本松・会津方面の同盟軍の崩壊を早めていくことになります。

大ケヤキが見つめた落城
本丸跡にそびえる大ケヤキは、築城のころからこの城とともにあり、戊辰の落城と炎上を目のあたりにした「生き証人」と伝わります。今は市民の憩う静かな公園ですが、深いお濠と土塁、そしてこの大ケヤキが、半日で消えた城の記憶を今も語りかけてくるようでした。十万石の城が一日と持たずに焼け落ちた――その事実の重さを、静けさのなかにかみしめた現地取材でした。
棚倉城跡(亀ヶ城公園)へのアクセス・地図
棚倉城跡は福島県東白川郡棚倉町、JR水郡線・磐城棚倉駅から徒歩圏内の亀ヶ城公園として自由に見学できます。お濠と土塁、大ケヤキが残ります。
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