1868年(慶応四年)に始まった戊辰戦争は、新政府軍と旧幕府勢力が全国で激突した内戦でした。ただ、当時およそ260以上あった藩のすべてが、最初からどちらかにはっきり分かれて戦ったわけではありません。多くの藩は、時々刻々と変わる情勢を見きわめながら、生き残りをかけて態度を決めていきました。この記事では、戊辰戦争で各藩がどのように立場を選んだのかを、大きく3つのタイプに整理して解説します。
大きく3つに分かれた諸藩の立場
戊辰戦争における藩の立場は、おおまかに「新政府方」「旧幕府方」「そのあいだで揺れた日和見・恭順」の3つに分けられます。
1. 新政府方—薩長を中心とする倒幕勢力
新政府軍の中核を担ったのは、倒幕を主導してきた西南の雄藩でした。薩摩藩と長州藩を筆頭に、土佐藩、肥前の佐賀藩などがこれに続きます。彼らは早くから軍備の近代化を進めており、新式の銃や洋式の戦術を備えた強力な軍事力を持っていました。天皇を戴く「官軍」という大義名分も、彼らの立場を後押ししました。
2. 旧幕府方—徳川に殉じた藩々
一方、最後まで徳川家に忠義を尽くそうとした藩もありました。その代表が会津藩です。京都守護職として尊王攘夷派の取り締まりにあたった会津は、新政府から「朝敵」と名指しされ、戊辰戦争で最も過酷な戦いを強いられました。桑名藩など、徳川と縁の深い親藩・譜代大名も、旧幕府方として行動しました。
3. 日和見・恭順—多くの藩が選んだ現実的な道
実は、数のうえで最も多かったのが、この「情勢を見て身の振り方を決めた」藩々でした。1868年初めの鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、多くの藩は雪崩を打つように新政府側へと恭順していきます。藩の存続と領民を守るためには、勝ち馬に乗るという現実的な判断が欠かせなかったのです。これを一概に「裏切り」と責めることはできません。藩という共同体を預かる者としての、苦渋の選択でした。
東北・北越では「同盟」という第三の道も
そうしたなかで、東北と北越の諸藩は、独自の道を選びます。仙台藩や米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩の救済を求めて結成されたのが奥羽越列藩同盟でした。新政府軍に単独で立ち向かうのではなく、諸藩が結束して対抗しようとしたのです。長岡藩のように、激しく戦った藩もありました。しかし装備や結束の面での弱さから、同盟はやがて各地で敗れていきます。
藩ごとの選択が、その後の運命を分けた
戊辰戦争でどちらについたかは、明治以降の各藩・各地域の歩みにも影を落としました。新政府方についた藩は新時代で有利な立場を得やすく、最後まで抵抗した藩は苦しい戦後を強いられることもありました。一つひとつの藩が、どんな事情で、どんな決断を下したのか—それを知ると、戊辰戦争は単なる「官軍対賊軍」の物語ではない、無数の選択の集積として見えてきます。
それぞれの藩が幕末・維新をどう生き抜いたのかは、全藩の個別ページで詳しくたどれます。気になる藩から、その選択の背景をのぞいてみてください。
戦いの最中に立場を変えた藩
立場の選択が、戦いのさなかに行われた例もあります。慶応四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いでは、山崎の砲台を守っていた津藩藤堂家の兵が、三日目の正月六日、新政府側の求めに応じて対岸の旧幕府軍に砲撃を加えました。背後から撃たれた旧幕府軍は総崩れとなり、大坂へ退きます。藤堂家の祖・高虎がかつて主君を何度も替えたことになぞらえ、この寝返りは「さすが藤堂」と皮肉られました(津城跡の現地取材)。
同じ戦いで、老中を出していた淀藩は、敗れて逃げてきた旧幕府軍に城門を開きませんでした。藩主が江戸にいて留守のあいだに、家臣たちが新政府側につくことを決めたためです(鳥羽伏見の戦いと新選組)。
藩の内部で起きた粛清
御三家の尾張藩では、慶応四年正月、新政府側につくことを決めた前藩主・徳川慶勝のもとで、佐幕派とされた重臣ら十四人が処刑されました。「青松葉事件」と呼ばれます。立場の選択は、藩の外との戦いだけでなく、藩の内側での血の流れる対立をも生みました。
まとめ
戊辰戦争で各藩は、新政府方・旧幕府方・日和見/恭順という3つの立場に大きく分かれ、東北・北越では奥羽越列藩同盟という第三の道も生まれました。多くの藩は情勢を見ながら現実的に身を処し、その選択がその後の運命を左右しました。薩摩藩や会津藩など、個々の藩の決断の背景を知ることで、戊辰戦争の立体的な姿が見えてきます。

