高浜藩の歩み
江戸時代の若狭国に置かれた藩は小浜藩だけで、江戸時代に「高浜藩」という藩はありませんでした。ただし、江戸時代より前に木下利房が高浜城主として治めた2万石(のち3万石)を「高浜藩」と呼ぶ資料もあります。ここは高浜城の城下であり、幕末には小浜藩の領地だった土地です。
若狭武田氏の被官が築いた海城
高浜城を築いたのは、若狭武田氏の被官だった逸見昌経です。日本海に突き出た岬の先端に構えられた、海に面した城でした。
昌経の死後、城は織田信長に召し上げられ、のちに溝口氏が入ります。関ヶ原ののち若狭一国は京極高次に与えられ、寛永十一年(1634年)からは酒井忠勝の小浜藩となって、そのまま幕末まで続きました。
藩が一つしかない国、という条件
一国に藩が一つというのは、幕末を考えるうえで意味があります。若狭には、藩論が割れる相手がいませんでした。福井藩と鯖江藩と大野藩が入り組んだ越前とは、事情がまるで違います。
そのぶん小浜藩の背負った荷は重かったです。若狭湾は京へ塩と魚を運ぶ鯖街道の入口であり、同時に日本海に開いた海防の最前線でもあります。異国船の出没が伝えられるようになると、藩は長い海岸線をひとつで守らねばなりませんでした。高浜もその海岸線の一部です。
いまの高浜
城跡は城山公園として整備されています。岬の先には明鏡洞と呼ばれる海食洞があり、洞の向こうに水平線が切り取られて見えます。城がここに築かれた理由—海がよく見える—が、立ってみるとそのまま分かる場所です。
藩はなかったが、奉行は置かれた
高浜に藩はありませんでしたが、役所はありました。高浜には小浜藩の町奉行が置かれていました。丹後街道の道筋をたどると、敦賀から関峠、三方郡、椿峠、佐柿(ここにも陣屋と町奉行)、倉見峠、遠敷郡、小浜城下、勢坂、大飯郡、和田、そして高浜。高浜の次の蒜畠には女留番所、つまり女性の通行を取り締まる関所があり、そこを越えると吉坂峠から丹後へ抜けます。小浜藩の領内で、高浜は佐柿と並ぶ出先だったことになります。
高浜城主から新発田藩主になった男
逸見昌経は天正九年(1581年)に病死しました。遺領は本知五千石と新知三千石の計八千石で、これを織田信長が分割しています。そのとき高浜城に入ったのが溝口秀勝です。信長から直々に五千石を与えられて高浜城主となり、天正十一年(1583年)に秀吉の北陸平定の功で加賀大聖寺四万四千石、慶長三年(1598年)には越後新発田六万石。高浜の岬の城から始まって、大きな藩の祖になった人です。
その後は天正十三年八月に丹羽長重が越前を没収されて若狭一国に入り、関ヶ原ののちは京極高次。寛永十一年(1634年)閏七月六日に酒井忠勝が若狭一国と越前敦賀郡・近江高島郡で十一万三千五百石を領して入封し、以後幕末まで小浜藩です。
台場が並んだ海岸
幕末の若狭は、海の方を向いていました。寛政四年から五年のラクスマン来航で異国船警備の体制がつくられ、文化五年(1808年)のフェートン号事件のあとは鐘と太鼓で領内全域に知らせる監視の仕組みが敷かれます。そして嘉永三年(1850年)以降、小浜藩は領内各地に台場を築いていきました。高浜のどこに台場があったかはわかっていませんが、日本海に突き出た岬を持つこの地が対象から外れたとは考えにくい位置です。
藩主 酒井忠義は二度にわたり京都所司代を務め、安政の大獄を指揮しました。要職は藩の財政に重くのしかかったとされます。戊辰では新政府に恭順し、明治元年七月五日に歩兵四小隊・野砲二門・総勢三百余で敦賀を出発して越後口へ向かい、長岡藩と交戦。会津へ着く前に落城したため十月に帰藩しています。損害は戦死一名・負傷三名でした。
城山公園と八穴
高浜城跡はいま城山公園です。日本海の荒波が削った「高浜の八穴」があり、そのうち明鏡洞が知られています。この八穴は高浜町指定の名勝で、平成二十一年十一月二十六日の指定です。城跡そのものは、文化財の指定を受けていないとみられます。JR若狭高浜駅から徒歩十五分ほどです。
高浜城の主たち—逸見昌経・山内一豊・木下利房
海に突き出た城
高浜には江戸時代に藩はありませんでしたが、戦国時代から江戸初期にかけて高浜城がありました。主郭は海に突き出た半島に置かれ、二の丸・三の丸は半島の付け根にありました。城を築いた逸見昌経は水軍を率いて若狭武田氏と戦ったとされ、漁師の地子銭(土地の税)を免除し、それが明治維新まで続いたという話も伝わります。宮崎の園松寺には、昌経の墓(五輪塔)と坐像があります。
山内一豊と木下利房
天正十三年(1585年)、のちの土佐藩主・山内一豊が高浜城主となりましたが、同じ年のうちに長浜へ移りました。文禄三年(1594年)には、高台院(ねね)の甥・木下利房が高浜二万石(のち三万石)の城主になります。利房は関ヶ原で西軍について領地を失いましたが、高台院との縁で死罪を免れ、のちに足守藩主として復活しました。(日出藩の木下家については日出藩のページもご覧ください。)
廃城、そして城山公園へ
寛永十一年(1634年)、京極家の重臣が城代のときに高浜城は廃城になり、建物の一部は小浜の常高寺(京極高次の妻・お初の寺)の本堂に使われたとされます。城跡は小浜藩酒井家の所有のままでしたが、昭和二十四年に高浜町へ譲られ、城山公園になりました。また幕末の嘉永七年(1854年)、小浜藩は隣のおおい町大島に松ヶ瀬台場と鋸崎台場を築きました。どちらも国の史跡で、大砲を回転させる石の軌道が残っています。
藩がなくても、城と海の歴史はある
高浜は「藩」の名がつかない土地ですが、海の城、土佐藩主の若き日、ねねの甥の失脚と復活、そして幕末の台場と、物語は豊富です。藩があったかどうかより、その土地で何があったかを見ることが大事だと、高浜は教えてくれます。
高浜藩をもっと詳しく
「高浜藩」と呼ばれた2万石
江戸時代の若狭は小浜藩が一国を治めましたが、その直前の豊臣政権のもとでは、木下利房が大飯郡2万石を領した時期があり、これを「高浜藩」と呼ぶ資料もあります。文禄3年(1594年)、高台院(ねね)の兄・木下家定の子である木下勝俊が小浜城を与えられると、弟の利房は隣の高浜城2万石を与えられ、慶長元年(1596年)には3万石に加増されました。勝俊の石高は6万2000石とする資料と、6万5000石とする資料があります。利房は天正元年(1573年)に若狭で生まれた人で、兄の勝俊はのちに歌人・木下長嘯子として名を残しました。
関ヶ原で分かれた兄弟の運命
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで利房は西軍につき、8月1日には若狭の軍勢が越前北ノ庄(福井城)への援軍を命じられました。戦後は加賀大聖寺城の攻略に兵を出したことを責められ、本来なら死罪のところを高台院の縁で改易に留められます。東軍についた兄の勝俊も、伏見城の戦いの前に城を離れたことを敵前逃亡とみなされて領地を失いました。兄弟は父の家定を頼って備中足守へ落ちのびます。慶長13年(1608年)に家定が亡くなると遺領をめぐって兄弟が争い、徳川家康は遺領そのものを取り上げてしまいました。利房が大名に戻れたのは、大坂の陣で徳川方につき、高台院の監視役も務めたあとの元和元年(1615年)のことで、備中に2万5000石を得て足守藩を再興しました。京都・高台寺の塔頭である圓徳院の名は、利房の法号に由来します。
小浜藩の大飯郡と和田の代官所
江戸時代の高浜を含む大飯郡は、小浜藩領のうち47か村を数えました。高浜城が廃されたあと、この地域には和田に代官所が置かれています。関ヶ原ののち若狭が京極家の領国だったころには、京極高次の弟・高知の娘婿にあたる八条宮智仁親王が若狭と丹後をめぐり、高浜の青葉山にちなむ和歌を詠んでいます。小浜藩の藩校は、9代藩主の酒井忠貫が安永3年(1774年)に開いた順造館でした。
幕末の小浜藩と戊辰戦争の始まり
元治元年(1864年)、水戸の天狗党が小浜藩領の越前敦賀郡に入ると、小浜藩は加賀藩など十数藩とともに鎮圧にあたりました。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に加わって薩摩・土佐の軍に敗れ、退却の途中で山陰道鎮撫総督に降り、朝廷への陳謝が認められています。そのあと藩主の酒井忠氏は、北陸道鎮撫使の先鋒として従軍しました。
戦国時代から続く高浜七年祭
高浜の町を語るうえで欠かせないのが、佐伎治神社の式年大祭である高浜七年祭です。6年ごとの巳年と亥年に行われる福井県指定無形民俗文化財で、京都の祇園祭と同じく疫病退散を願う御霊会の一つとされます。永禄12年(1569年)6月19日、連歌師の里村紹巴が紀行文に「高浜祇園会」を見物したと記しており、このころにはすでに祭りが行われていたと考えられています。起源は逸見昌経による高浜城の築城後とみられます。
祭りでは三基の神輿が町を巡ります。東山の神輿は稲田姫命、中ノ山の神輿は素戔嗚命、西山の神輿は大己貴命をまつり、なかでも中ノ山の神輿はいちばん大きく、担ぎ手も130人を数えます。各地区の御旅所となる家は山元と呼ばれます。神輿とともに太刀振りやお田植、神楽などの芸能が奉納されます。最終日には氏子が神輿をかついだまま海に入る「足洗いの儀」が行われ、これによって疫神が海に帰っていくとされます。明治38年(1905年)までは9日間の祭りでしたが、明治44年(1911年)からは7日間になりました。直近では令和7年(2025年)6月に開かれています。明治22年(1889年)に高浜村が生まれ、明治45年(1912年)に町制を敷いて高浜町となったいまも、祭りは旧高浜地区全域を氏子として続いています。



