日出藩/木下家3万石:木下俊愿 佐幕と勤皇で藩論が割れるが最終的には新政府軍に与した日出藩

日出藩 木下家3万石 最後の藩主 木下俊愿
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日出藩の歩み

藩祖は「豊臣秀吉」の正室「高台院(ねね)」の兄「木下家定」の三男である「木下延俊」です。慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」のとき、東軍として活躍した功績により「徳川家康」から五千石加増の上で豊後国速見郡日出三万石に封じられました。なお、父の家定も延俊とは別に所領を与えられ、備中国賀陽郡足守を拝領しました。

延俊の子で、第2代藩主となった「木下俊治」の時代に弟の「木下延由」に五千石(速見郡立石)の所領を分与したため、日出藩の所領は二万五千石となります。江戸時代を通じて移封も減封もされることなく明治時代を迎えました。

幕末の藩主「木下俊愿」は慶応三年(1867年)五月二十九日、養父俊程の隠居により家督を継ぎました。幕末の動乱の中で、藩内では佐幕派と尊皇派に分裂して対立しましたが、俊愿は藩論を尊皇にまとめて「戊辰戦争」では新政府に与することにしました。慶応四年(1868年)一月十三日上洛、十六日参内し、新政府支持の姿勢を示しました。

明治元年(1868年)九月二日、「木下利恭」とともに新政府に対し、豊国神社の造営を自分たちに申し付けてほしいと願い出ました。明治二年(1869年)六月二十日、版籍奉還で日出藩知事となりましたが、明治四年(1871年)、廃藩置県により廃藩し日出県となり、のち大分県に編入されました。

大分県にただ一つ残る藩校と、鬼門櫓です

致道館は安政五年の藩校です

藩校致道館は安政五年(1858年)に十五代藩主木下俊程が創設しました。大分県内に現存する唯一の藩校で、昭和二十八年(1953年)四月二十日に大分県の史跡に指定されています。

建物は昭和二十五年に解体されましたが、翌昭和二十六年、帆足萬里の没後百年の記念事業として講堂と正門が現在地へ移築されました。平成二十三年から大修理が行われ、平成二十七年(2015年)に竣工しています。

鬼門櫓は、城の外から戻ってきました

日出城(暘谷城)の隅櫓(鬼門櫓)は、平成二十八年(2016年)二月二十三日に大分県の有形文化財となりました。正保年間(1645〜48年)の絵図にも櫓が描かれていますが、いま残る建物は江戸時代後期の築造とみられています。明治の廃城令で取り壊される対象でしたが、個人の所有を経て残り、大正十年(1921年)に城外へ移築されました。現在地への移築復元は平成二十年に始まり、平成二十五年(2013年)に竣工しています。

日出城の遺構は、本丸跡の石垣、この鬼門櫓、裏門櫓、そして致道館です。日出藩木下家墓所は平成十五年(2003年)四月一日に、三代俊長の墓である横津御廟は平成三十一年三月十九日に、それぞれ日出町の史跡となりました。

帆足万里と、十四代俊方の兵制改革

儒学者の帆足万里は天保三年(1832年)から家老として藩の財政再建にあたりました。十四代藩主木下俊方(文政十三年〜嘉永七年、二十五歳で死去)が帆足万里の弟子たちを長崎へ送って医学や砲術を学ばせ、兵制改革に力を尽くしたとされます。致道館が開かれたのは、その俊方の次の代のことです。

俊愿は授爵していません

上の段の木下俊愿は天保八年(1837年)四月二十七日に生まれ、明治十三年(1880年)四月十五日に四十四歳で亡くなりました。明治三年には、山香地区の農民一揆を、農民側の要求を入れて鎮めています。亡くなったのが明治十七年の華族令より前なので、俊愿本人は爵位を受けていません。子爵は嗣子の俊哲が授けられました。

三万石で入った日出藩は、二代のときに立石(→立石藩)へ五千石を分け、以後は二万五千石でした。藩祖延俊の父である家定が与えられた備中の足守藩も、同じ木下家です。藩校も櫓も墓所も、いまは指定文化財として日出の町に残っています。

秀頼の子は生きていた?—日出藩の木下家と国松伝説

細川忠興が縄張りした城

日出藩初代・木下延俊は、秀吉の正室・高台院(ねね)の甥です。妻は細川忠興の妹で、日出城の縄張りは義兄の忠興が引き、石垣は穴太衆が築いたとされます。関ヶ原のとき、延俊は最初から東軍につき、姫路城を家康に差し出しました。弟の小早川秀秋の軍勢を姫路城に入れなかったといいます。家格は外様です。

『慶長日記』と新免無二

延俊が残した『慶長日記』は、慶長十八年(1613年)を一日も欠かさず記録した日記です。宮本武蔵の父とされる新免無二から剣術を習ったという記事や、高台院からの贈り物、大坂で豊臣秀頼に会ったことも書かれています。延俊の墓は江戸の泉岳寺にあり、日出の松屋寺には殉死した家臣四人の墓があります。

国松伝説

分家の立石領の初代・木下延由には、秀頼の子・国松だったという伝説があります。大坂落城のあと国松は薩摩にかくまわれ、のちに延由と入れ替わったというもので、日出藩主家で跡継ぎだけに代々伝えられたとされます。昭和四十三年(1968年)、木下家の当主が著書で公表しました。延由の位牌には「豊臣延由」と書かれています。立石の木下家は交代寄合として参勤交代をしていました。

海の参勤交代と城下かれい

日出藩の参勤交代は海路でした。深江港に残る藩の御茶屋「襟江亭」(寛文七年・1667年)は町の文化財で、ほかの藩の船団も風待ちで立ち寄った港です。城の真下の海では真水が湧き、名物「城下かれい」がとれます。日出の家老の家からは、作曲家・滝廉太郎も出ています。豊臣の血を秘かに伝えたという伝説を持つ家が、海とともに幕末まで続いた。日出は、物語の多い城下町です。

日出藩をもっと詳しく

大坂の陣のあとも許された「豊臣」の名

豊臣家は大坂夏の陣で滅びましたが、日出藩の木下家と、藩祖延俊の父・家定が開いた備中の足守藩の木下家は、秀吉の正室・高台院の近い親族であったことから、その後も豊臣氏を名乗ることを許されていました。分家の立石藩(立石領)の延由の位牌に「豊臣延由」と書かれているのも、この家の成り立ちを物語っています。

3重の天守があった日出城

日出城は、慶長6年(1601年)から慶長7年(1602年)にかけて延俊が築いた城です。別府湾に突き出た台地の南の端に本丸を置き、その東・西・北の三方を二の丸がコの字形に囲み、さらに東に三の丸を置く梯郭式の平山城でした。本丸には3重の天守と2重櫓5基、平櫓1基が建っていました。

慶長7年に建てられた天守は、外から見て3重、中は3階で、屋根に飾りの破風を持たない層塔型でした。1階は南北9間半・東西8間、2階は南北6間・東西5間、3階は南北5間・東西4間で、1階だけが大きくつくられています。古い望楼型から新しい層塔型へ移っていく時期の天守と考えられています。北東の隅にあった鬼門櫓は、鬼門を避けるために角を欠いた五角形の櫓で、全国でも珍しいつくりです。「暘谷城」という別名は、3代藩主の俊長が中国の古典『書経』または『淮南子』からとって名づけたと伝えられます。

廃城のあとの城

明治7年(1874年)に城は廃され、建物は競売にかけられました。本丸には暘谷学舎が開かれ、これがいまの日出小学校の始まりです。大手門の跡は小学校の校門になっています。海を望む望海櫓は、大正10年(1921年)の校舎の建て替えで取り壊されました。御裏門は1階の門の部分が龍泉寺の山門として移され、いまも残っています。二の丸の民家に移されていた裏門櫓(鐘櫓)は、平成12年(2000年)に解体して保存され、平成22年(2010年)に二の丸へ移して復元されました。大手の土橋と両側の蒲鉾塀、東西の空堀や北東の水堀の一部も残っています。

若宮八幡神社を建てた3代・俊長

3代の俊長は寛文元年(1661年)に父・俊治の死で家督を継ぎ、寛文9年(1669年)に日出若宮八幡神社の本殿を建てました。その後も元禄12年(1699年)に渡殿と拝殿、元禄14年(1701年)に神楽殿、元禄16年(1703年)に楼門、宝永5年(1708年)に絵馬殿を建て、いまの社殿をそろえています。天和3年(1683年)から貞享3年(1686年)まで、罪を犯した旗本・大久保忠宣の身柄を幕府の命令で預かったこともありました。元禄11年(1698年)には、領内の農民が村から逃げ出したことを恥じて自ら謹慎しましたが、幕府の調べで農民の訴えは事実ではないとされています。宝永4年(1707年)に隠居し、享保元年(1716年)に69歳で亡くなりました。

帆足万里の改革とその後

家老として財政を立て直した帆足万里は、安永7年(1778年)に家老・帆足通文の子として日出に生まれ、三浦梅園・広瀬淡窓とともに「豊後三賢」と呼ばれる学者です。藩主・木下俊敦にたっての願いで家老となると、倹約を進め、自ら帳簿を調べて役人の不正を明らかにしました。3年後には、大坂の商人からの借金を返していく見通しが立っています。天保6年(1835年)に病を理由に家老を辞め、天保13年(1842年)からは目刈(いまの日出町)の私塾・西崦精舎で教えました。オランダの書物をもとに自然科学をまとめた『窮理通』は、没後の安政3年(1856年)に一部が刊行されています。門人の関焦川と米良東喬はのちに日出藩の家老となり、関讃蔵は万里のすすめで西洋砲術を学んで藩の大砲づくりにかかわりました。

動員できた兵の目安

慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、1万石あたり235人を出すことになっていました。日出藩の2万5,000石にあてはめると、およそ590人になります。ただし、この規定は案のままで発布されなかったとする説もあります。

場所・アクセス・地図

〒879-1501 大分県速見郡日出町

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