安塚の戦いとは?暴風雨の夜に旧幕府軍が壬生の手前で敗れた戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすく—兵力・藩・永倉新八の負傷まで

暴風雨の安塚で新政府軍の陣地に向かう旧幕府軍のイメージイラスト

慶応4年(1868)4月22日の夜明け前。下野の安塚(いまの栃木県下都賀郡壬生町安塚)は、車軸を流すような暴風雨に包まれていました。宇都宮城を落としたばかりの旧幕府軍およそ600人が、壬生城を目ざして闇の中を進み、待ち構えていた鳥取藩・土佐藩の新政府軍とぶつかります。雨で銃は火を噴かず、道は沼のようになり、3時間の激戦のすえに旧幕府軍は宇都宮へ引き返しました。これが「安塚の戦い」です。

江戸を出てから勝ち続けていた大鳥圭介の旧幕府軍にとって、初めての敗戦でした。この記事では、安塚の戦いがなぜ起き、どの藩と部隊がどれだけの兵で戦い、なぜ旧幕府軍が押し切れなかったのかを、進軍図とイラストで解説します。前後の流れは「宇都宮城の戦いとは」にまとめています。

目次

安塚の戦いとは?ひとことで言うと

宇都宮城を落とした旧幕府軍が、南の壬生城に集まった新政府軍の援軍を先に叩こうとして、途中の安塚で鳥取藩・土佐藩の陣地にはね返された戦いです。この敗戦で旧幕府軍の勢いは止まり、翌23日には宇都宮城を奪い返されます。

日時 慶応4年4月21日の夜半〜22日の朝(1868年5月13日〜14日)。戦いはおよそ3時間
場所 下野国都賀郡の安塚村(現在の栃木県下都賀郡壬生町安塚)。宇都宮と壬生を結ぶ壬生道ぞい、姿川のほとり
天候 暴風雨と深い霧。「大雨車軸を流すが如し」と記録される
旧幕府軍 大鳥圭介の軍(大鳥は体調を崩して宇都宮城に残った)。幕府歩兵第七連隊・伝習隊・靖共隊などの正面攻撃隊と、会津兵・伝習隊の別動隊
新政府軍 鳥取藩・土佐藩の救援隊(河田隊。率いたのは鳥取藩の河田左久馬)。壬生藩兵も加わった
兵力(おおよそ) 旧幕府軍 正面攻撃隊約600人(別動隊を合わせて約900人) 対 新政府軍 約500人
結果 新政府軍の勝利。旧幕府軍の戦死60〜70人(士官8〜9人をふくむ)、新政府軍の戦死16〜17人

なぜ安塚で戦いが起きたのか

宇都宮城を落とした旧幕府軍

4月11日、江戸城が新政府軍に明け渡されると、大鳥圭介は幕府の伝習隊などを率いて江戸を脱出し、下総の国府台に集まった旧幕府の兵とともに北へ向かいました。小山で新政府軍を破り、4月19日には土方歳三らの別動隊が宇都宮城を落とします。翌日には大鳥の本隊も宇都宮に入り、旧幕府軍は一つにまとまりました(宇都宮城の戦いとは)。

壬生城に集まる新政府軍の援軍

宇都宮の南西、10キロあまりのところにある壬生城は、鳥居家3万石の壬生藩の城です。壬生藩は迷ったすえに新政府の側につき、宇都宮へ向かう大鳥の軍が壬生を通ることを断っていました。大鳥はそのため、遠回りして鹿沼から宇都宮へ入っています。

宇都宮城が落ちたと知った新政府軍は、東山道から援軍を急がせます。まず4月20日に壬生城に入ったのが、鳥取藩の河田左久馬が率いる鳥取藩・土佐藩の救援隊、およそ500人でした。そのあとには、薩摩藩・長州藩・大垣藩の兵も続いていました。

先に壬生を叩く

宇都宮の旧幕府軍にとって、壬生城に援軍がそろってしまえば、宇都宮は南から攻められます。大鳥の軍は、援軍が集まりきる前に壬生城を攻め落とそうと決めました。宇都宮城を出た兵は、夜のうちに壬生へ向かいます。

両軍の顔ぶれと兵力

新政府軍(壬生城に入った救援隊)

藩 大名家・石高 藩主 この戦いでの動き
鳥取藩 池田家
32万5千石
池田慶徳 救援隊の中心。河田左久馬が率い、劣勢と聞いて壬生城から打って出て反撃した
土佐藩 山内家
24万石
山内豊範 鳥取藩とともに安塚に陣を構えて戦った。戦死した土佐藩士の墓が安塚に残る
壬生藩 鳥居家
3万石
鳥居忠宝 地元の藩として先に立って戦った。雨の中、味方の弾を受けるなど苦戦したと伝わる
吹上藩・松本藩 有馬家1万石
松平家6万石
有馬氏弘
松平光則
壬生町の記録では、新政府軍に加わったとされる

新政府軍は安塚に胸壁(土を盛った防壁)を築いて大砲を据え、左右の林に歩兵をひそませて待ち構えていました。本陣は安塚の島田家に置かれ、姿川をはさんで旧幕府軍に向き合います。

旧幕府軍(大鳥圭介の軍)

隊 部隊 役目
正面攻撃隊 幕府歩兵第七連隊、伝習隊の一部、砲兵、築造兵(工兵)。靖共隊(靖兵隊)・草風隊・回天隊・撒兵隊なども加わった 壬生道を進み、安塚の陣地を正面から攻める。約600人
間道の隊 会津藩(松平家23万石)の兵 西の間道から壬生城へ向かう
雀宮回りの隊 伝習隊2小隊 日光街道の雀宮を回って、壬生城の背後を突く

総大将の大鳥圭介は、この日は体調を崩して宇都宮城に残り、出陣していません。靖共隊は副長の永倉新八らが指揮し、米田圭次郎が歩兵300を率いていました。桑名藩(松平家11万3千石)の兵の一部も加わったとされます。

兵力と条件を比べる

旧幕府軍 新政府軍
兵力 正面攻撃隊約600人(別動隊を合わせて約900人) 約500人
兵の中身 フランス式の調練を受けた幕府歩兵と伝習隊が中心 鳥取藩・土佐藩の藩兵。壬生藩などが加わる
陣地 夜の行軍で到着し、地形がわからないまま攻めかかった 胸壁と大砲、林の伏兵で待ち構えていた
指揮 総大将の大鳥は宇都宮城に残り、3隊がばらばらに動いた 河田左久馬が壬生城から直接指揮し、劣勢と見ると自ら打って出た

数では旧幕府軍がやや上回っていました。それでも、待ち構える側と、雨の闇の中を進んでくる側の差は大きいものでした。

戦いの流れ

安塚の戦いの進軍図
安塚の戦いの進軍図。宇都宮城を出た旧幕府軍は三手に分かれて壬生城へ向かい、安塚で鳥取藩・土佐藩の陣地にはね返された(イメージ)

21日夜〜22日未明:暴風雨の中を三手に分かれて進む

旧幕府軍は、宇都宮城から三手に分かれて出発しました。会津兵は西の間道から、正面攻撃隊は壬生道を、伝習隊の2小隊は日光街道の雀宮を回って壬生城の背後へ。新選組の島田魁の日記では、暁七ツ(午前4時ごろ)に壬生城へ向かったとあります。

この夜は暴風雨でした。道はほとんど見えず、一面が沼のようになります。当時の小銃は雷管で火薬に火をつけるしくみでしたが、雨で雷管が発火せず、銃も大砲も使えないことが多かったと記録されています。

夜明け前:安塚の陣地にぶつかる

暴風雨の安塚で新政府軍の陣地に向かう旧幕府軍
暴風雨の夜明け前、雨で火のつかない銃を抱えた旧幕府軍。川の向こうには新政府軍の胸壁と大砲(イメージ)

夜明け前、正面攻撃隊が安塚の手前に着くと、新政府軍はすでに胸壁を築き、大砲を据えて待ち構えていました。左右の林からも撃ちかけられ、旧幕府軍は不意をつかれます。それでも態勢を立て直して反撃し、はじめは旧幕府軍が押して、一部は安塚の中まで入りこみました。

夜が明けても雨はやまず、地形もわからないまま、姿川をはさんだ撃ち合いが続きます。靖共隊では、米田圭次郎が股を撃たれ、永倉新八も腕に傷を負いました。永倉はのちに、自分の受けた傷を書き上げた記録の中に、この安塚での傷を残しています。

河田左久馬の反撃

安塚が苦しいと聞いた河田左久馬は、壬生城から鳥取藩兵を率いて打って出て、猛然と反撃しました。雨と寒さで疲れきっていた旧幕府軍は押し戻され、姿川の向こう岸へ退きます。およそ3時間の激戦のすえ、旧幕府軍に引き上げの合図が出されました。新政府軍は少し追いましたが、深追いはしませんでした。

雀宮を回った伝習隊の2小隊は、安塚の戦いには加わらず、壬生の城下の町家数軒に火をつけるにとどまりました。大雨のため、火はあまり広がらなかったといいます。島田魁の日記では、四ツ時(午前10時ごろ)には宇都宮城へ引き上げて休んでいます。

戦いのあと

死傷者の数

旧幕府軍 新政府軍
戦死 60〜70人。うち士官8〜9人(大鳥圭介『南柯紀行』)。安塚の「戊辰戦役の碑」には34人が弔われている 16〜17人
負傷 多数。靖共隊の米田圭次郎・永倉新八も負傷 河田隊の死傷は約60人

翌日安塚に入った館林藩の兵は、あたりに死体や武器、弾薬箱、握り飯までが散らばっていたと書き残しています。宇都宮へ戻った旧幕府の兵は、全身ずぶ濡れで疲れ果てていました。大鳥はこの戦いを「八分の敗軍」と書き、江戸を出てから初めての負け戦だったと記しています。

翌23日、宇都宮城を奪い返される

22日の午後には、薩摩藩の有馬藤太や、大山弥助(のちの大山巌)・野津七次(のちの野津道貫)らの援軍およそ250人も壬生城に入りました。新政府軍は翌23日に宇都宮城を攻めることを決めます。前日の戦いで疲れた河田隊は壬生に残り、薩摩藩・大垣藩などの兵が宇都宮へ向かいました。

23日、宇都宮城の戦いで土方歳三が足を撃たれ、旧幕府軍は夕方には城を捨てて日光へ退きます。旧幕府軍が宇都宮城を保てたのは、わずか4日でした。そのあと旧幕府軍は今市を経て会津へと退き、靖兵隊も今市で戦うことになります(今市の戦いとは・靖兵隊とは)。

この戦いが示したもの(筆者の感想)

安塚の戦いは、数で勝っていた側が、雨と闇と待ち伏せに負けた戦いでした。旧幕府軍の中心は、フランス式の調練を受けた洋式の歩兵です。ところが、その強みである小銃が、暴風雨の中では火を噴きませんでした。最新の武器も、天気と地形の前では思うように使えなかったのです。

もう一つは、総大将の不在です。大鳥圭介は体調を崩して宇都宮城に残り、三手に分かれた隊はそれぞれに動いて、雀宮回りの隊は戦いに間に合いませんでした。反対に新政府軍では、河田左久馬が劣勢と見るや自ら打って出ています。指揮をとる者がその場にいるかどうかで、戦いの流れは大きく変わりました。

そしてこの泥の中には、近藤勇と別れて靖兵隊をつくった永倉新八もいました。京都で剣をふるった剣客が、雨で火のつかない銃を抱えた歩兵と並び、腕に傷を負って宇都宮へ引き返す。新選組の時代が終わり、戦いのかたちが変わっていくようすが、この小さな戦場にもよく表れていると思います。

現地を歩く ― 安塚の戦いの史跡

  • 戊辰戦役の碑(栃木県下都賀郡壬生町安塚1849付近):この戦いで戦死した旧幕府軍34人を弔うため、明治13年(1880)に地元の有志が建てた碑。姿川の淀橋へ向かう道ぞいにあります
  • 島田家長屋門(壬生町安塚、旧栃木街道ぞい):新政府軍が本陣を置いた島田家の門。弾の跡が残るといわれます
  • 安昌寺(壬生町安塚):戦死した土佐藩士の墓があります
  • 戊辰戦争戦死者の墓碑(東武宇都宮線 安塚駅の近く):土佐藩士3人の墓などが並びます
  • 壬生城址公園(壬生町本丸):新政府軍の援軍が集まった壬生城の跡。水堀と土塁が残ります

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 大鳥圭介『南柯紀行』
  • 『島田魁日記』『浅田惟季北戦日誌』『戊辰戦争見聞略記』『館林須坂両藩兵戦記』(ブログ「安塚の戦い」所引)
  • 壬生町「壬生の歴史 安塚の戦い」(地域史料デジタルアーカイブ)、壬生町教育委員会「戊辰戦役の碑」案内板
  • Wikipedia「宇都宮城の戦い」

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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