五井の戦いとは?房総最後の戦い、徳川義軍が養老川と姉ヶ崎で半日のうちに崩れた理由

養老川を渡って攻める新政府軍と、対岸で撃ち返す徳川義軍(イラスト)

慶応4年閏4月7日。上総の五井(いまの千葉県市原市)を流れる養老川をはさんで、新政府軍と旧幕府の「徳川義軍」が撃ち合いました。新政府軍が川を渡って横から突くと義軍は崩れ、午後2時すぎには姉ヶ崎の陣も落ちます。義軍の死者は50〜60人、新政府軍は1人。房総で起きた最後の本格的な戦い、「五井の戦い」(五井戦争)です。

4日前の市川・船橋の戦いで敗れた撒兵隊が、立て直す間もなく追われて敗れた戦いでした(市川・船橋の戦いとは)。この記事では、五井の戦いがどう起き、どの藩がどれだけの武器で戦い、徳川義軍がなぜ半日で崩れたのかを、進軍図とイラストで解説します。

目次

五井の戦いとは?ひとことで言うと

木更津を拠点にした旧幕府の撒兵隊(徳川義軍)が、房総を南へ追ってきた新政府軍と養老川・姉ヶ崎で戦い、一日で崩れて、房総での組織的な抵抗が終わった戦いです。

日時慶応4年閏4月7日(1868年5月28日)。前夜の6日から小競り合い
場所上総国市原郡の養老川一帯と姉ヶ崎(現在の千葉県市原市)
旧幕府側徳川義軍(撒兵隊)。総督は福田八郎右衛門(道直)
新政府側薩摩藩・長州藩・大村藩・岡山藩・津藩・佐土原藩
結果新政府軍の勝利。義軍の死者50〜60人、新政府軍の死者1人。翌8日に木更津・真里谷も押さえられ、房総は新政府のものとなった

なぜ五井で戦いが起きたのか

市川・船橋の敗北と、南へ下る義軍

江戸城の明け渡しに従わず、木更津に入った福田八郎右衛門の撒兵隊は、真里谷村の真如寺に本陣を置いて「徳川義軍府」と名のっていました。閏4月3日、北に出ていた第一大隊・第二大隊が市川・船橋で敗れると、残った兵は上総へ下ります。

新政府軍はこれを追って、閏4月4日に検見川、6日に千葉の蘇我まで進みました。その6日の夜、市原の八幡のあたりで、薩摩藩の兵2人が義軍に殺されます。翌7日、両軍は五井の南を流れる養老川をはさんで向かい合いました。義軍は、養老川の渡し場を守るよう、まわりの村々に命じていました。

板ばさみになった鶴牧藩

五井村は、市原郡で唯一陣屋を置いていた鶴牧藩(水野家1万5千石)の領地でした。小さな藩は、目の前で戦う両軍のどちらにもつかず、中立を守ろうとします。ところが戦いのあと、新政府はこれをとがめ、鶴牧藩は安房・上総の領地の一部を取り上げられて、別の土地に替えられました(鶴牧藩)。

両軍の顔ぶれと兵力

旧幕府側(徳川義軍)

役目人物・部隊どんな人・部隊か
総督福田八郎右衛門(道直)撒兵隊を率いて木更津に入り、真里谷の真如寺に本陣を置いた
撒兵隊指図役頭取仙石釩三郎150人ほどの部隊を率いた。戦いのあと日光をめざして北へ逃れた
拠点姉ヶ崎義軍府の陣があり、東の高台に胸墻(胸の高さの土塁)を築いていた

新政府軍(3つの隊に分かれて南下)

隊藩進んだ道
右翼隊岡山藩、大村藩の半隊街道の西、海沿いを広がって進む
中央隊薩摩藩、長州藩、大村藩浜野の東から街道を南へ
左翼隊津藩(のちに佐土原藩・岡山藩が合流)八幡から内陸へ分かれ、養老川の上流の権現堂へ

兵力と武器を比べる

徳川義軍新政府軍
大砲2門。砲兵が足りなかった薩摩藩だけで大砲5門と臼砲。佐土原藩・岡山藩も大砲を持っていた
兵幕府の洋式部隊・撒兵隊。精鋭とされたが、市川・船橋で敗れた直後で士気は低かった鳥羽・伏見から戦ってきた薩摩・長州の兵に、6つの藩の兵
陣地養老川の渡し場と、姉ヶ崎の高台の胸墻川を正面から押さえつつ、両側から渡って回りこむ
指揮義軍府にしっかりした指導者がいなかった3つの隊が足並みをそろえて動いた

両軍とも、この日の兵の数ははっきりわかっていません。しかし大砲の数を見るだけでも、力の差は明らかでした。

戦いの流れ

五井の戦いの進軍図
五井の戦いの進軍図。千葉から3つの隊に分かれて南下した新政府軍が養老川を渡り、姉ヶ崎の義軍府の陣を落とした。義軍は木更津から海へ逃れ、翌日には真里谷の真如寺が焼かれた(イメージ)

朝:養老川へ

閏4月7日、新政府軍の中央隊は、村田川沿いの義軍を追って浜野の東から南へ進みました。右翼隊は海沿いを広がって進みます。義軍はほとんど踏みとどまらずに、養老川の線まで退きました。

養老川の戦い:大村藩、川を渡る

養老川を渡って攻める新政府軍と、対岸で撃ち返す徳川義軍
養老川を渡って攻めかかる新政府軍と、対岸の土手から撃ち返す徳川義軍(イラスト)

新政府軍が養老川の右岸(北岸)に着くと、義軍はここで初めて強く撃ち返しました。そこで右翼隊の大村藩兵が川を渡って左岸(南岸)に上がり、義軍の横を突きます。横から攻められた義軍は崩れて退き、中央隊も川を押し渡って、姉ヶ崎の東の高台へ向かいました。

権現堂:津藩の回りこみ

同じころ、左翼の津藩兵は、八幡のあたりから内陸へ分かれて進みました。小さな部隊を破り、大師堂を焼いて、養老川の上流の権現堂の対岸に着きます。西広のあたりで義軍の防戦にあうと、津藩は西広の北の高台に兵を上げて、上から撃ち下ろしました。義軍は川岸から村の中へ逃れ、津藩兵は川を渡って権現堂村に突入し、これを破りました。

正午すぎ〜午後2時:姉ヶ崎の陥落

正午すぎ、新政府軍は姉ヶ崎の東の高台にある義軍の陣に攻めかかります。

  • 正面からは、薩摩藩の兵2隊と一番砲隊
  • 西からは、薩摩藩1隊・長州藩1隊・大村藩の半隊が、姉ヶ崎の町の方へ
  • 遅れて着いた佐土原藩兵が岡山藩兵と合わさって左翼隊となり、台地の真ん中へ

大砲を撃ちこまれると義軍は動揺し、撃ち返す銃声も弱まっていきました。そして右翼隊が姉ヶ崎の東北の端の胸墻に突入し、午後2時すぎ、義軍府の陣地は落ちました。

戦いのあと

死傷者

徳川義軍新政府軍
死者50〜60人1人
負傷者140〜150人28人

(数字は『新編大村市史』による)

8日:木更津と真里谷へ

翌8日、新政府軍は薩摩・長州・大村・佐土原の兵を奈良輪に集めて木更津へ向かいました。しかし木更津に義軍の姿はありません。義軍の多くは、7日の夜から8日の朝にかけて舟で海へ逃れ、主力は江戸へ、一部は榎本武揚の艦隊へ向かっていました。

岡山藩・津藩の兵は真里谷へ向かいましたが、本陣の真如寺にも人はいませんでした。新政府軍は、また拠点に使われることを心配して、真如寺を焼き払います。

ちりぢりになった義軍

部隊その後
真里谷にいた兵下総の小見川に集まっていたところを説得され、江戸へ連れ戻されたと考えられる。閏4月25日の記録では543人、小銃470挺、弾薬3,000発
仙石釩三郎の隊日光をめざして北へ逃れたが、閏4月14日、那珂川のほとりで薩摩・宇都宮・大垣の兵に襲われ、13人が戦死して散り散りになった
一部の兵榎本艦隊に加わり、のちに箱館まで戦った(箱館戦争とは)

こうして徳川義軍は消え、房総は新政府軍に平定されました。同じころ房総を南へ進んでいた林忠崇と遊撃隊も、まもなく館山から相模へ海を渡っていきます(遊撃隊と林忠崇の房総転戦とは)。

なぜ林忠崇・遊撃隊と組んで戦わなかったのか

同じころ、房総にはもう一つの旧幕府側の部隊がいました。伊庭八郎・人見勝太郎の遊撃隊と、藩を抜けてこれに加わった請西藩主・林忠崇の一隊です。どちらも「義軍」と名のっていました。それなのに、両者が一緒に戦うことはありませんでした(遊撃隊と林忠崇の房総転戦とは)。理由は大きく三つあります。

撒兵隊(福田八郎右衛門)遊撃隊と林忠崇
兵の数およそ1,500〜2,000人出陣時は遊撃隊約40人と請西藩士約70人。箱根の戦いでも273人
大砲五井では2門出陣時に持っていた記録は見当たらない。富津陣屋で前橋藩から大砲を引き渡させた(数は不明)
めざした場所北の市川・船橋へ出て、江戸の近くで大鳥圭介と組む内房の藩から兵を集めて南へ下り、伊豆から小田原藩と組んで箱根を押さえる
閏4月7日の居場所五井・姉ヶ崎で新政府軍と戦う安房の保田あたりで、勝山藩に兵を出すよう迫っていた

林忠崇は撒兵隊の規律を嫌った

先に林へ決起をうながしたのは、撒兵隊の福田のほうでした。ところが撒兵隊は木更津のまわりの村に分かれて陣を置き、農民から食べ物や金を取り立てていたと伝わります。林は規律の乏しい撒兵隊に同調しきれず、あとから来た伊庭・人見の人柄を見て、遊撃隊と組む道を選びました。

目的が正反対だった

撒兵隊は北へ、江戸の方へ兵を出しました。林と遊撃隊は南へ下り、海を渡って箱根で東海道をふさぎ、西から来る新政府軍を止めようと考えていました。同じ房総にいながら、向いていた方角がまったく逆だったのです。

タイミングもすれ違った

林が真武根陣屋を焼いて出陣した閏4月3日は、撒兵隊が市川・船橋で戦っていた、まさにその日でした。4日後に五井で撒兵隊が敗れたとき、林と遊撃隊は40キロ近く南の安房にいました。かりに組んでいたとしても、兵の数でも大砲の数でも五井の結果は変わらなかったと思います。それよりも、房総と江戸のまわりにこれだけの旧幕府の兵がいながら、まとめて動かす人が誰もいなかったことのほうが、大きな問題でした。

この戦いが示したもの

五井の戦いで義軍が崩れたのは、大砲の数が足りなかったからだけではないと思います。精鋭のはずの撒兵隊が、養老川でも姉ヶ崎でも、ほとんど踏みとどまれませんでした。

撒兵隊は、もとは旗本・御家人の家の者を中心にした、幕府の兵でした。ところが、その主君である徳川慶喜は、すでに江戸城を明け渡して水戸で謹慎しています。市川・船橋の交渉で江原鋳三郎が求めたのは、「徳川家の家名が立つなら武器を置く」ということでした。そして五井の戦いから3週間ほどあとの閏4月29日、田安亀之助(のちの徳川家達)が徳川家を継ぐことが認められます。義軍が戦う理由は、戦っている間にも薄れていったのです。

甲州勝沼、梁田、市川・船橋、そして五井。江戸開城の前後に関東で起きた戦いを並べると、旧幕府側はどこでも、部隊ごとにばらばらに動き、それぞれ一日か半日で敗れています。数や武器だけでなく、何のために、誰の指図で戦うのか。それが定まらないまま戦った兵たちの姿が、この一連の戦いから見えてきます。

そして、彼らの戦いが終わったわけではありませんでした。五井で散った兵の一部は、上野へ、会津へ、そして箱館へと、戦いの場を移していくことになります(上野戦争とは)。

現地を歩く ― 五井の戦いの史跡

  • 養老川(市原市):両軍が向かい合い、大村藩兵が渡った川です
  • 妙経寺(市原市姉崎):姉崎にいた撒兵隊の陣が置かれた寺で、境内に戊辰戦争で亡くなった徳川義軍の兵の墓が残ります
  • 出津の共同墓地(市原市):養老川の改修のときに、まわりにあった義軍の兵の墓を土地の人々が改めて葬り、慰霊碑を建てています
  • 五井陣屋跡(市原市五井):いまのJR・小湊鐵道の五井駅のあたりとされますが、遺構は残っていません(五井藩)

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 『戊辰役戦史(上)』時事通信社、1968年
  • 『新編大村市史』第四巻(近代編)
  • 市原歴史博物館「姉崎フィールドマップ」
  • 鋸南町 菱川師宣記念館「勝山藩の戊辰戦争」
  • 一紅会歴史研究会資料「幕末維新 箱根戦争」
  • Wikipedia「五井戦争」

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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