姉崎藩の歩み
慶長十二年(1607年)十一月、「徳川家康」の次男「結城秀康」の次男「松平忠昌」が姉ヶ崎に一万石を与えられたことにより姉ヶ崎藩が立藩しました。忠昌は元和元年(1615年)十一月、大坂の陣の功により、常陸国下妻藩三万石に加増転封されました。これにより「姉ヶ崎藩」は廃藩となりました。
元和五年(1619年)十二月、「松平忠昌」の弟「松平直政」に姉ヶ崎一万石が与えられ、越前大野一万石と合わせて二万石にて再び姉ヶ崎藩が立藩されました。寛永元年(1624年)六月、直政は越前大野五万石に加増されたため、姉ヶ崎藩は再び廃藩となりました。
廃藩のあと—二百年後、同じ姉崎に別の藩庁が戻ってきた
姉崎藩は二度立っています。慶長十二年(1607年)に結城秀康の次男・松平忠昌が、次いで元和五年(1619年)に弟の松平直政が入りました。直政は寛永元年(1624年)に越前大野へ移り、姉崎藩は廃藩となります。この直政が、のちの松江藩の祖です。
ところが二百年後、この地に藩庁が戻ってきます。文政十年(1827年)、安房北条藩主で幕府若年寄だった水野忠韶が上総へ移され、同年十一月に陣屋を「鶴牧」と改めて鶴牧藩が成立しました。そしてその藩庁は市原市椎津、いまの市原市立姉崎小学校の敷地にありました。約一万七千坪です。周りには武家屋敷が並んでいました。
鶴牧藩は一万五千石でしたが、そのうち七千石余は丹波にあり、分けて支配していました。市原郡は天領・旗本領・藩領が入り組んでおり、慶応三年の時点で郡内に陣屋を置いていた藩は鶴牧藩だけです。
幕末、この地は戦場になりました。慶応四年閏四月六日から七日にかけての五井戦争です。市川・船橋で敗れた旧幕府軍—徳川義軍、いわゆる撒兵隊が上総へ南下し、官軍が追いました。七日、養老川で対峙したのち、岡山藩・大村藩の渡河と側面攻撃で幕府軍は崩れ、同日午後二時過ぎ、姉ヶ崎の徳川義軍府の陣地があっけなく陥落します。戦死は幕府軍側で五十〜六十名。これで房総は平定されました。鶴牧藩の陣屋も外廓が焼けています。
もうひとつ、この藩には学問の顔がありました。藩主・水野忠順が藩校修来館を開き、約三十年かけて『史記評林』を校訂。明治二年に刊行された「鶴牧版史記評林」は、明治天皇への進講に用いられました。
姉崎小学校の敷地には鶴牧藩庁跡の石碑と大ソテツが残ります。姉埼神社の神領三十五石は、姉崎藩主・松平直政が寄進したものと伝わります(元和四年の寄進とされますが、直政が姉崎を与えられたのは元和五年なので、年には検討の余地があります)。妙経寺には徳川義軍の戦没者の墓があります。
真田幸村が軍扇を投げた少年・松平直政
二度目の姉崎藩主となった松平直政は、家康の次男・結城秀康の三男です。慶長十九年(1614)の大坂冬の陣で、十四歳の直政は初陣として、真田信繁(幸村)が守る出城・真田丸への攻撃に加わりました。真田勢の激しい鉄砲に多くの兵が倒れるなか、直政は先頭に立って進みます。その若武者ぶりに感じた信繁が、櫓の上から自分の軍扇を投げ与えてたたえた、という逸話が伝わっています。この軍扇は、のちに松江藩松平家の家宝として伝えられました。
姉崎の兄弟のその後
最初の姉崎藩主・松平忠昌は直政の兄で、下妻、信濃松代、越後高田を経て、寛永元年(1624)に兄・忠直の改易のあとを受けて越前福井藩主となりました(その福井藩から分かれた越前松岡藩も参照)。弟の直政は越前大野、信濃松本を経て、寛永十五年(1638)に出雲の松江十八万六千石に入り、松江藩松平家の祖となります。姉崎の一万石は、二人の兄弟がともに大藩の主となる前の、最初の領地だったのです。
松江藩の幕末と、残った天守
直政の子孫は明治まで松江藩主を務めました。幕末の松江藩は徳川一門として幕府寄りの立場にありましたが、慶応四年(1868)の戊辰戦争では新政府に従い、山陰道鎮撫総督の求めに応じています。直政が入った松江城の天守は、明治の廃城のときに取り壊されかけながらも残り、いまは全国に十二しかない江戸時代以前からの天守の一つとして、国宝に指定されています。
真田の軍扇を受けた殿様の最初の領地—姉崎と松平直政
十一歳の藩主・松平忠昌
姉崎藩の最初の藩主・松平忠昌は、結城秀康の次男で、立藩した慶長十二年(1607年)にはまだ十一歳でした。のちに越前福井藩主となる人です。その後、元和五年(1619年)に姉崎を与えられたのが、秀康の三男・松平直政でした。家格は親藩です。
口の達者な若武者・直政
直政は慶長六年(1601年)近江の生まれで、母は秀康の側室・月照院です。大坂の陣のとき直政には軍資金がなく、家臣が西本願寺から大金を借りてきたと伝わります。冬の陣では真田丸の戦いで奮戦し、真田信繁から軍扇を投げ渡されたという話は有名です(木本藩)。夏の陣では三十余りの首を挙げ、家康から打飼袋を与えられました。口が達者で、陰で「油口」と呼ばれていたとも、母から「身分の低い母の子と見られないように」と諭されたともいわれます。姉の喜佐姫は長州藩主・毛利秀就の正室です。
陣屋の場所はまだわからない
姉崎陣屋の場所ははっきりしていません。妙経寺の西約二百メートルの一帯が候補とされ、旧道が直角に曲がっていたことや、明治初期の地図に四角い区画が見えることが根拠になっています。姉崎は房総往還の継立場(人馬の中継地)として栄えた町でした。のちの鶴牧藩の陣屋は、境川をはさんだ南側に置かれています。
姉崎から、松江へ
直政は越前大野、信濃松本を経て出雲松江十八万六千石の藩主となり、幕府領の隠岐も預かりました。墓所の松江・月照寺は「松江藩主松平家墓所」として国の史跡です。房総の小さな宿場町の殿様が、のちに隠岐の海まで治める家の祖になる。姉崎は、松江松平家の物語の最初のページでした。



