2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

板倉勝静(いたくら かつきよ)は、備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の藩主で、幕末の幕府で最後の老中首座を務めた人物です。寛政の改革で知られる老中・松平定信の孫にあたります。藩では山田方谷を登用して財政を立て直し、幕府では十五代将軍・徳川慶喜の側近として大政奉還を支えました。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順が勘定奉行として横須賀製鉄所やフランスとの借款を進めたとき、老中としてその上にいたのが板倉でした。
板倉勝静の大河『逆賊の幕臣』での配役は、2026年10月24日の時点ではまだ発表されていません。発表があり次第、この記事に追記します。
板倉勝静とは?—先に答え
| 読み方 | いたくら かつきよ |
|---|---|
| 生没 | 文政六年(1823年)一月四日〜明治二十二年(1889年)四月六日 |
| 生まれ | 桑名藩主・松平定永の八男。祖父は寛政の改革の松平定信。備中松山藩主・板倉勝職の養子となりました |
| 何をした人 | 山田方谷を登用して藩政を改革。幕府では寺社奉行を経て老中となり、慶応年間には老中首座として大政奉還を支えました |
| 小栗との接点 | 小栗が勘定奉行として改革を進めた慶応年間、老中首座として幕閣を率いていました |
| 最期 | 戊辰戦争で箱館まで旧幕府方に従ったのち自首。赦免後は上野東照宮の祠官を務め、明治二十二年に亡くなりました |
松平定信の孫—備中松山藩主へ
板倉は、伊勢桑名藩主・松平定永の八男として生まれました。祖父は、寛政の改革を行った老中・松平定信です。備中松山藩主・板倉勝職の養子となり、嘉永二年(1849年)に藩主となりました。
当時の備中松山藩は、表向き五万石ながら実際の収入はずっと少なく、十万両ともいわれる借金を抱えていました。板倉は、農民の出身で藩校の教授だった山田方谷を元締役に抜擢し、藩政の改革を任せます。方谷は産業の振興や藩札の整理などを進め、わずか数年で借金を返し、逆に蓄えを持つ藩に変えました。山田方谷については山田方谷とは何をした人物かで詳しく扱っています。
寺社奉行から老中へ
板倉は幕府の寺社奉行を務めていましたが、安政の大獄では処分に寛大な意見を述べたため、井伊直弼に退けられました。井伊の死後、文久二年(1862年)に老中となり、生麦事件の処理や将軍・家茂の上洛などにあたります。
いったん老中を退いたのち、慶応元年(1865年)に再任され、やがて老中首座となりました。この時期、勘定奉行の小栗忠順はフランス公使ロッシュと結んで横須賀製鉄所の建設や軍制改革、対仏借款の交渉を進めています。板倉は老中としてこうした改革を認め、支える立場にありました。対仏借款については幕府とフランスの借款交渉とはで扱っています。
大政奉還—慶喜の側近として
慶応二年(1866年)末に徳川慶喜が十五代将軍になると、板倉は京都で慶喜の最も近くに仕える老中となりました。慶応三年(1867年)十月、慶喜が政権を朝廷に返す大政奉還を決めたとき、二条城に諸藩の重臣を集めてその意向を伝えたのが板倉です。大政奉還については大政奉還とはで詳しく扱っています。
藩では、山田方谷も大政奉還の上表文の作成に関わったと伝えられます。ただし、どこまで関わったかについては諸説あります。
日光・奥羽・箱館—将軍家に従い続けて
鳥羽伏見の戦いに敗れると、板倉は慶喜とともに江戸に戻り、老中を辞しました。藩主不在の備中松山藩は、山田方谷の判断で新政府軍に城を明け渡し、戦いを避けています。
一方の板倉は、日光へ移り、のちに宇都宮で新政府軍に捕らえられて軟禁されました。解放されたあとは奥羽越列藩同盟の側に加わり、さらに榎本武揚の艦隊とともに箱館へ渡ります。旧幕府の老中首座が、最後まで旧幕府方の戦いに身を置いたことになります。
藩の重臣たちの説得で、板倉は箱館を離れて東京に戻り、明治二年(1869年)に自首しました。安中藩に預けられて禁錮となりましたが、明治五年(1872年)に赦されます。のちに上野東照宮の祠官を務め、明治二十二年(1889年)に亡くなりました。
大河『逆賊の幕臣』と板倉勝静
板倉は、小栗が勘定奉行として改革を進めた時期の老中首座で、大政奉還の場面にも欠かせない人物です。2026年10月24日の時点で配役は発表されていませんが、登場する可能性は高いと考えられます。ただし、これは推測です。
板倉勝静のゆかりの地
- 備中松山城(岡山県高梁市)。詳しくは備中松山城:幕末には板倉勝静が山田方谷を執政に抜擢 日本三大山城備中松山城【お城特集 日本の歴史】
- 山田方谷記念館(岡山県高梁市)
- 上野東照宮(東京都台東区)
- 五稜郭(北海道函館市)
小栗忠順のゆかりの地をめぐる
小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。
- 【現地取材】小栗上野介ゆかりの地を1日でめぐる|築地・雑司ヶ谷・大宮・倉渕の回り方とモデルコース、ゆかりの地一覧(回る順番と移動時間、エリア別の一覧)
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- 倉渕・東善寺をめぐるモデルコース(都内発・車で1泊2日。墓所の東善寺、最期の地、普門院の首塚)
- 横須賀の日帰りコース(都内発。軍港めぐりで、小栗が始めた造船所を海から見られます)
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小栗忠順をもっと知る本
記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。
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▶ 小栗忠順のゆかりの地を歩く(現地取材)
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参考資料
朝森要『備中松山藩の研究』、矢吹邦彦『炎の陽明学—山田方谷伝』、高梁市「備中松山城」案内、コトバンク「板倉勝静」。



