幕末の藩政改革のうち、成功したと言い切れるものを一つ挙げるなら、備中松山藩の改革になります。十万両の借財を抱えて実質は破綻していた五万石の藩が、八年ほどで借金を消し、同じだけの蓄えを持つまでになりました。差配したのは山田方谷、菜種油を売る農商の家に生まれた儒者です。ここでは、その改革が具体的に何をしたのかを、高梁市と岡山県が公開している資料に沿ってたどります。数字に幅のあるところは、幅があるまま書きます。
菜種油屋の子が、藩の財布を預かるまで
方谷は文化二年の二月二十一日、備中松山領阿賀郡西方村、いまの高梁市中井町西方に生まれました。父は五郎吉、母は梶。家は農業のかたわら菜種油をつくって売る、農商とでもいうべき暮らしでした。諱は球、通称は安五郎、幼名を阿璘といいます。文化六年、新見藩の儒者である丸川松隠の門に入りました。神童と呼ばれたのは五歳の頃だと備前市の資料は伝えています。
ところが文政元年に母を、翌年に父を失います。文政三年、親族の相談で方谷が実家を継ぐことになりました。十代なかばで家業を背負いながら学問を続けたわけです。文政二年には京都へ出て寺島白鹿に学び、文政八年には藩主の板倉勝職から二人扶持を与えられて学問所での修行を許されます。文政十二年には八人扶持、中小姓格に上り、藩校有終館の会頭を命じられました。
天保五年、江戸に出て佐藤一斎の門に入ります。三年学んで塾頭になりました。同じ塾に佐久間象山がいて、二人は日夜議論をたたかわせ、のちに二傑と並び称されます。天保七年に帰藩して有終館の学頭となり、天保九年には城下の御前丁に家塾の牛麓舎を開きました。
嘉永二年、引き受けたのは「実収二万石の五万石」でした
嘉永二年四月、板倉勝静が藩主となります。その年の十二月、方谷は元締役を命じられ、吟味役を兼ねました。四十五歳です。
渡された財布の中身はひどいものでした。高梁市の説明によりますと、表高は五万石でも実収入は米にして一万九千三百石余り、実質は二万石です。そこへ十万両の借財があり、利息だけで年に八千両から九千両が出ていきました。岡山県はこの負債を「歳入のほぼ二年分」と表現しています。なお高梁市の別のページには先代から引き継いだ借金を八万両とする記述もあり、額は資料によって揺れます。
藩そのものの歩みは備中松山藩/板倉家五万石:板倉勝静のページにまとめてあります。
大坂の債主には、帳簿を開いて頭を下げました
方谷が最初にやったのは、踏み倒しでも先送りでもありませんでした。嘉永三年十月、大坂の債主と返済計画を協議します。このとき藩の帳簿をそのまま示し、実状を正直に話したうえで、返済をしばらく待ってほしい、十年あるいは五十年の年賦にしてほしいと願い出ました。高梁市は、うそのない説明に好意がもたれて了承された、と書いています。あわせて大坂の蔵屋敷を廃し、年に千両の経費を削りました。
倹約の中身も具体的です。藩士の給与を減らし、衣服は絹を禁じて綿織物のみ、櫛のたぐいは木か竹に限り、足袋をはくのは十月の節句から翌年四月まで、飲食は一汁一菜。上から下まで一律に締めました。
嘉永五年九月五日、河原で藩札を焼きました
この改革でいちばん知られているのが、藩札を焼いた話です。
備中松山藩は延享元年に札座を置き、寛政九年に五匁札を出していました。ところが天保年間の大火のあとに出しすぎて額面どおりに通らなくなり、偽札まで出回ります。方谷は嘉永三年から五年にかけて、四百八十一貫百十匁分の藩札を、偽札もろとも買い取りました。そして嘉永五年九月五日、高梁川の近似側の河原で、総額七百十一貫三百匁を一枚ずつ確かめながら焼いたと高梁市は記しています。人々の見ている前でのことでした。
焼いたうえで、新しい藩札「永銭」を三種類発行します。産業で得た利益を準備金に置いた札で、やがて他藩にまで流通するようになりました。紙をただ増やすのではなく、一度すべて燃やして信用ごと作り直した、ということになります。なお高梁市の資料には買い取った額と焼いた額の円換算が併記されていますが、換算率が一桁以上合わないため、ここでは現代の金額に直していません。
売ったのは、米ではなく鉄でした
締めるだけでは十万両は消えません。方谷は稼ぐ側に手を入れます。嘉永五年、松山に撫育方を、江戸に産物方を置きました。年貢米以外の産物を藩が集中して管理し、江戸まで運んで直接売る仕組みです。
柱になったのは鉄でした。備中鍬は全国に広まり、江戸では鉄釘が高く売れています。会津藩士の秋月悌次郎はこの藩を見て、釘を作り江戸で売って一年に三千両の利を生んでいる、と評しました。ほかに津川の茶が霜の花と呼ばれて高値で売れ、ハゼ、刻み煙草、柚餅子、和紙、杉、竹、漆といった品も扱っています。元治元年には吉岡銅山を買い取りました。
鉄を柱にできたのには理由があります。備北にはたたら製鉄に使う良質の砂鉄と、燃料になる木炭が豊富にありました。中国山地は明治の初めごろまで全国の鉄生産量の八割以上を占めています。岡山県は、大坂の債主が返済猶予に応じたのはこの見込みがあったからだ、という見方を示しています。誠実さだけで待ってもらえたわけではない、ということです。
千二百人の農兵と、七千百五十両の船
嘉永五年に郡奉行を兼ねてからは、軍のほうにも手を伸ばします。領内を八つに分けてそれぞれ大隊を置き、あわせて千二百人の農兵を組織しました。里正隊と呼ばれます。年に一度、桔梗河原で調練をおこないました。高梁観光協会は、神官や猟師や農民からなるこの鉄砲隊に藩兵四百を加えた規模は二十万石の大名にも匹敵した、としています。高梁市は、これが長州藩の奇兵隊のもとになったと紹介しています。
文久二年には、アメリカから三百五十トン、長さ三十三メートルのスクーナー型帆船を七千百五十両で買い、快風丸と名づけました。船については快風丸のページで触れています。買った船であって建造したものではありません。
学校も直しました。天保十年の大火で焼けたまま仮校舎だった有終館を建て直し、寄宿舎を設け、二人扶持の奨学金を置いて、藩士の子弟には七、八歳からの就学を義務づけています。勝静の言葉として「文なき武は誠の武にあらず」が伝わります。
八年で十万両。ただし数字には幅があります
成果の言い方は、資料によって揺れます。高梁市の連載は、元締となった八年間で十万両の負債を償却し、のちには十万両の余財を見るようになった、と書きます。同じ高梁市でも山田方谷記念館のページは七年、岡山県は八年、倉敷観光の特設サイトは安政四年に完了した七年としています。
年ごとの数字はもっと地味です。安政元年と三年は年に千両の黒字、安政五年は三千六百余両の赤字、安政四年から万延元年までの三、四年間で約一万三千両の余剰。毎年うなるほど儲かったのではなく、増えたり減ったりしながら均して残した、というのが実像に近そうです。
よく見かける「三百億円」という換算は、高梁市も岡山県も使っていません。公的機関の表現はいずれも「数百億円」です。
慶応四年正月、城は戦わずに開きました
改革で富んだ藩が、幕末の政局で割を食います。藩主の板倉勝静は文久二年に老中となり、いったん退いたのち慶応元年に再び老中となって大政奉還に協力しました。ところが鳥羽伏見の戦いのあと、備中松山藩は朝敵とみなされます。
慶応四年正月十八日、備中松山城は岡山藩の鎮撫使に無血で開かれました。降伏の交渉は美袋の本陣でおこなわれています。このとき岡山藩が用意した降伏文書の案が、勝静の行いを「大逆無道」と記していました。方谷はこれを見て、この文字を除かねば自分は自刃すると言い張り、「軽挙暴動」に改めさせています。城を守れないことは受け入れても、主君の名を売ることは受け入れなかった、ということでしょう。攻める側については岡山藩/池田家三十一万五千石:池田章政のページにまとめてあります。
四日後の正月二十二日、玉島で家老の熊田恰が自刃しました。四十四歳です。百五十人ほどの藩兵を率いて帰藩しようとしたところ、藩は鎮撫軍の攻撃下にあって受け入れられず、備前藩兵に囲まれます。恰は部下の助命と藩の安泰、戦火の回避を嘆願したうえで、西爽亭の次の間で腹を切りました。その部屋には血しぶきの跡がいまも残っていると倉敷市は記しています。玉島が焼けなかったのはこの人のおかげだと語り継がれてきました。
藩は明治二年九月、高梁藩二万石として再興され、明治四年の廃藩置県を迎えます。勝静は箱館まで転戦したのち明治二年五月に江戸で自訴し、のちに許されました。明治八年四月には高梁で方谷と顔を合わせています。
弟子たち—三島中洲と河井継之助
方谷の名が残ったのは、財政の腕だけではありません。牛麓舎と長瀬塾、小阪部塾から人が出ました。
三島中洲は十四歳で方谷の門に入って陽明学を学び、三十歳のとき方谷の薦めで備中松山藩に仕えます。明治十年十月十日、麹町に漢学塾二松学舎を開きました。いまの二松学舎大学です。
越後長岡藩の河井継之助が来たのは安政六年七月でした。万延元年三月に帰るとき、継之助は長瀬から対岸へ渡り、方谷に向かって河原にひざまずき、数度礼をして去ったと伝わります。滞在はおよそ八か月です。継之助が長岡で何をしたかは武装中立を夢見た男—河井継之助が長岡藩で断行した改革とはにまとめました。師の改革を見た男が、十年たらずで自藩をどう作り替えたかがわかります。
長州の久坂玄瑞も安政五年十一月に来て、桔梗河原の銃陣調練を人にまじって眺めていきました。
維新のあとは、教える側に回りました
方谷は新政府に出ていません。明治三年十月、長瀬から小阪部、いまの新見市大佐へ移って子弟の教育にあたります。母の出生地でした。新見市によりますと、小阪部塾の塾生はおよそ三百人にのぼり、県内はもとより播磨、京都、伊勢、尾張、越前、武蔵からも人が集まったといいます。
明治六年には、いったん廃校になっていた閑谷学校を閑谷精舎として再興し、そこでも講じました。そして明治十年六月二十六日、小阪部の塾で門弟に見守られて世を去ります。七十三歳でした。墓は生まれた西方村に営まれ、いまの方谷園です。園内の墓石「方谷山田先生墓」は旧藩主の板倉勝静が書きました。
方谷が守った城そのものについては備中松山城とはにまとめました。
訪ねるなら
高梁市松原通に山田方谷記念館があります。生まれた中井町には方谷の里ふれあいセンターの方谷資料展示室、終焉の地の新見市大佐には大佐山田方谷記念館があり、それぞれ資料を見られます。方谷園は二か所あるので注意が必要です。高梁市中井町西方のものが墓所、新見市大佐小阪部のものが小阪部塾の跡地を整備した公園で、後者は新見市の指定記念物です。伯備線には方谷駅という駅もあり、これは藩士の土着策にならって方谷自身が移り住んだ長瀬の塾跡にあたります。
参考にした資料
- 高梁市『山田方谷について(高梁市歴史美術館)』
- 高梁市『広報たかはし連載 山田方谷を語る』第五回・第七回・第八回・第十回・第十一回・第十二回・第十三回
- 高梁市『山田方谷記念館 藩政改革/年表/生涯』
- 高梁市『方谷園』『山田方谷 大河ドラマ化を目指して』
- 岡山県『山田方谷とたたら製鉄』
- 新見市『山田方谷(新見市)』『新見市の指定文化財 方谷園』
- 倉敷市『旧柚木家住宅(西爽亭)』『玉島の史跡紹介』
- 備前市『旧閑谷学校の歴史』『閑谷学校ゆかりの人々』
- 二松学舎大学『建学の精神』『二松学舎列伝』
- 国立国会図書館『近代日本人の肖像 山田方谷』
- 長岡市『河井継之助の足跡』

