備中松山城は現在の岡山県高梁市にあった山城です。岐阜県の岩村城・奈良県の高取城と並び、日本三大山城の一つにも数えられています。城は標高430mの山頂にあり、現存する天守としては日本一高い位置にある天守として知られています。
戦国時代には三村氏が治める城で、岡山城を本拠とする「宇喜多直家」から度々攻撃を受けています。元亀元年(1570年)には宇喜多氏に城を奪われたが毛利氏の庇護のもと再び城を奪還しました。その後は毛利氏から離反し織田方へ鞍替えをしています。

このため毛利氏からの攻撃を受けて時の当主「三村元親」は自害して城は落城しました。以後、毛利氏の治める城となります。慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いが勃発すると毛利氏は所領を大幅に削られて、松山城には小堀氏が城番として配され、その後「池田氏」の所領となります。
江戸時代に入ると「水谷氏」「安藤氏」「石川氏」と城主が代わり、最後に徳川家譜代大名の「板倉氏」が五万石にて入封し幕末を迎えました。城は本丸・二の丸・三の丸からなり、江戸時代には山頂での政務が不便なため山麓に御殿を置き、そこで藩主の住居や政務をとり行いました。

現在の「備中松山城」は国の重要文化財や国の史跡に指定されており、本丸の整備や多くの櫓や門などを復元しています。また、日本100名城68番にも選定されています。

なお、幕末時に備中松山藩を大改革した執政の「山田方谷」は陽明学者としても有名です。

城を守らないと決めたのが、方谷でした
備中松山城が幕末に戦火を免れたのは、守らないという判断があったからです。鳥羽伏見の戦いで藩主の板倉勝静が旧幕府側にいたため、松山藩は朝敵とされ、追討令が出ました。城主不在の城に岡山藩の軍勢が向かってきます。
このとき執政だった山田方谷は、抗戦せず城を明け渡す道を選びました。開城は慶応四年一月。無血で明け渡されたこと、そして方谷の決断であったことは複数の資料が一致して伝えますが、具体的な日付を記すのはWikipediaの「一月十八日」だけで、高梁市の公式説明は月までしか示していません。
部下百五十人の命と引き換えに、一人が腹を切りました
同じころ、玉島でひとつの事件が起きています。倉敷市の文化財の説明によれば、松山藩士・熊田恰は鳥羽伏見の戦いで藩主板倉勝静の親衛隊長を務めていました。帰藩命令を受けて玉島港に上陸したものの、朝敵となった藩は彼らの帰藩を許しません。事情を知った恰は、部下およそ百五十名の助命を嘆願し、西爽亭の「次の間」で自刃しました。
西爽亭には「熊田恰の自刃の間」が残り、いまも血しぶきの跡が見られます。市の公式説明は年を慶応四年とするだけで、月日は示していません。「一月二十二日」とする日付は郷土史書を引いた記述で見かけますが、自治体や博物館の公式資料では裏が取れませんでした。
藩札を、人の見ている前で焼きました
山田方谷の改革は嘉永三年から嘉永五年にかけてのものです。高梁市の山田方谷記念館の説明では、まず上下ともに質素倹約とし、賄賂や酒馳走を禁じ、給料も削りました。
負債の整理では、債権者である大坂の両替商を一堂に集め、藩の帳簿をそのまま公開して返済計画を示し、了承を取り付けています。信用を取り戻すために内情を開けてみせたわけです。そして嘉永五年九月、回収した藩札と未使用の藩札を、大観衆の前で焼きました。処理を帳簿の上で済ませず、人に見せる形で行ったところに、この人の考え方が出ています。
産業では「撫育方」を新設して鉄器や農機具を江戸で直接売り、備中鍬が全国に広まりました。軍制では農兵の「里正隊」を作っています。整理した借財は十万両。現代の金額に換算した数字がいろいろ出回っていますが、換算のしかたは媒体ごとに違うので、ここでは両のまま書いておきます。
方谷は勝静が老中になると政治顧問として江戸に召され、幕政にも関わりました。明治六年二月からは閑谷精舎で子弟の教育にあたり、明治十年六月二十六日、小阪部で七十三歳で亡くなっています。
藩主は、箱館まで戦い続けました
板倉勝静は文久二年に老中、慶応元年十月に老中再任、慶応二年六月に老中首座。徳川幕府最後の老中首座です。鳥羽伏見の敗戦後は徳川慶喜とともに大坂から開陽丸で江戸へ退き、慶応四年三月に日光山に屏居したのち、奥州を経て蝦夷の箱館へ渡りました。松平定敬や小笠原長行らとともに旧幕府軍の一員として五稜郭まで転戦しています。
明治二年五月二十五日に帰京して翌日自訴し、八月十五日に上野国安中藩へ永預の処分。明治五年一月六日に特旨で禁錮を許され、明治十年七月十六日には上野東照宮の祠官になりました。降伏を説いたのは方谷らでした。城は無血で明け渡され、藩主は最後まで戦い、家老の一人は玉島で腹を切った。ひとつの藩の幕末が三つに分かれた例です。石高は二万石に減らされ、藩名は伊予松山との混同を避けて高梁藩と改められました。
現存十二天守のうち、山城はここだけです
天守は二重二階の櫓で本瓦葺、昭和十六年五月八日に指定されています。高梁市は高さを約十一メートルとし、現存天守のなかで最も低いと説明しています。天和年間の大修築のときに建てられたものです。国史跡「備中松山城跡」の指定は昭和三十一年十一月七日。文化庁の解説文は、これほど高い山頂部に近世に入っても築城された例は極めて稀だと述べています。
その天守も昭和の初めには蔦に覆われて崩壊寸前で、脇の八の平櫓は倒れていました。高梁中学校の教諭・信野友春が山城の調査をまとめて刊行し、修復の機運を高めたと伝えられます。昭和五年から十五年にかけて二重櫓と天守が修理され、昭和三十二年から三十五年の「昭和の大修理」で天守の部分修理が行われました。
いまは猫城主「さんじゅーろー」がいます。名は備中松山藩士から新選組の隊長となった谷三十郎にちなみます。平成三十年十二月十六日に正式デビュー。城に来た経緯は、豪雨のあとに三の丸で保護されたとする説明と、豪雨のときに失踪した飼い猫が一週間後に城で見つかったとする説明があり、出典によって違います。
城の歩き方や登城口については、備中松山城の詳しいページもあわせてご覧ください。
場所・アクセス・地図
岡山県高梁市内山下

