宇都宮城の戦いとは?土方歳三と大鳥圭介が落とし、4日で奪い返された戊辰戦争の一戦を進軍図でわかりやすく

水堀に映る宇都宮城の土塁と復元櫓(清明台)

江戸城が明け渡されたその日、江戸を抜け出して北へ向かった旧幕府の部隊がありました。大鳥圭介の伝習隊と、土方歳三が率いる別動隊です。彼らは小山で新政府軍を破り、宇都宮城を落としますが、わずか4日で城を奪い返されて日光へ退きます。これが「宇都宮城の戦い」です。

この記事では、江戸脱走から小山・宇都宮・安塚の戦い、日光への退却までを、なぜ北へ向かい、どう戦われ、どう終わったのかの順に、進軍図とあわせて解説します。このあと東北で起きる白河口の戦いは、宇都宮を取り返した新政府軍がそのまま北へ進んで始まりました。

目次

宇都宮城の戦いとは?ひとことで言うと

江戸開城に従わず脱走した旧幕府軍が、日光をめざして北関東を進み、新政府側の宇都宮城を落とし、そして奪い返された戦いです。旧幕府軍は小山で四度勝ち、宇都宮城も一日で落としましたが、援軍を重ねた新政府軍に押し返され、城を保てたのは4日だけでした。

期間 慶応4年4月16日〜23日(1868年5月8日〜15日)
場所 下総・下野(現在の茨城県古河市・結城市、栃木県小山市・壬生町・宇都宮市)
旧幕府軍 大鳥圭介の本隊(伝習隊など)、土方歳三の別動隊(伝習第一大隊・桑名藩兵・新選組など)。総勢約2,000名といわれる
新政府軍 宇都宮藩・彦根藩、香川敬三の救援隊、のちに薩摩藩・長州藩・大垣藩・鳥取藩・土佐藩などの援軍
結果 4月19日に旧幕府軍が宇都宮城を落とすが、23日に新政府軍が奪い返す。旧幕府軍は日光へ退く。城と城下の大半が焼けた

なぜ北関東が戦場になったのか

江戸開城の日に脱走した伝習隊

慶応4年4月11日、江戸城は新政府軍に明け渡されました(江戸城無血開城)。けれども、幕府の陸軍のなかには、戦わずに降ることを受け入れない者たちがいました。その中心が、フランス式の訓練を受けた幕府の精鋭・伝習隊です。

伝習隊はこの日のうちに江戸を抜け出し、翌12日、下総の国府台(いまの千葉県市川市)に集まりました。そこへ旧幕府の諸隊や桑名藩兵が加わり、伝習隊を育てた歩兵奉行の大鳥圭介が総督に選ばれます。新選組の副長だった土方歳三も、ここで合流しました。局長の近藤勇は、この直前に流山で新政府軍に出頭していました。

めざしたのは日光

旧幕府軍がめざしたのは、徳川家康をまつる日光東照宮でした。徳川家の聖地にたてこもり、北の会津藩と手を結べば、新政府軍と戦い続けることができる。その日光への道の途中にあったのが、新政府側についていた宇都宮藩の宇都宮城です。

旧幕府軍は国府台から二手に分かれて北へ進みます。大鳥圭介の本隊は結城・小山方面へ、土方歳三が参謀をつとめる別動隊は下妻・下館を経て東から宇都宮へ向かいました。

宇都宮城の清水門の説明板
宇都宮城の清水門の説明板。宇都宮城は、将軍が日光社参のときに泊まる城でした

両軍の顔ぶれと兵力

旧幕府軍 新政府軍
主力 本隊:大鳥圭介。伝習第二大隊、草風隊・貫義隊・凌霜隊など
別動隊:参謀・土方歳三。伝習第一大隊(秋月登之助)、回天隊、桑名藩兵、新選組など
宇都宮藩、彦根藩
東山道総督府の香川敬三が率いる救援隊(結城・館林・須坂・岩村田・足利などの藩兵)
4月23日の奪還戦:薩摩藩・長州藩・大垣藩・鳥取藩・土佐藩
兵力 国府台で約2,000名といわれる 小山・宇都宮の守りは少なく、23日には援軍で大きくふくらむ
指揮 総督・大鳥圭介 大軍監・香川敬三。奪還戦は伊地知正治(薩摩)、河田景与(鳥取)、有馬藤太・大山弥助(のちの大山巌)・野津七次(のちの野津道貫)ら

はじめのうち、北関東の新政府軍は数が少なく、近くの小藩の兵を寄せ集めた部隊でした。一方の旧幕府軍は、フランス式の訓練を受けた伝習隊を中心にした、幕府陸軍の精鋭です。この差が、前半の旧幕府軍の連勝を生みました。

戦いの流れ ― 国府台から日光へ

宇都宮城の戦い 進軍図(慶応4年4月)。旧幕府軍は国府台から二手に分かれて北上し、小山と宇都宮で勝つが、23日に宇都宮を奪い返されて日光へ退いた
宇都宮城の戦い 進軍図(慶応4年4月)。旧幕府軍は国府台から二手に分かれて北上し、小山と宇都宮で勝つが、23日に宇都宮を奪い返されて日光へ退いた

4月16日〜17日:小山の戦い、旧幕府軍の四連勝

宇都宮藩の求めで北関東に入っていた新政府軍の救援隊(大軍監・香川敬三)は、旧幕府軍が古河の近くまで来たと聞き、兵を南へ向けました。こうして小山宿のまわりで、二日のあいだに四度の戦いが起きます。

  • 16日午前:小山宿の近くで、新政府軍の支隊を草風隊・貫義隊・凌霜隊が追い散らす
  • 16日昼すぎ:結城から南下した新政府軍の支隊が、武井宿の近くで大鳥本隊の先鋒とぶつかり、多くの死傷者を出して敗走
  • 17日朝:宇都宮から南下して小山宿を押さえた香川の本隊が、大鳥本隊に散開・包囲されて敗走
  • 17日夕方:小山宿で休んでいた大鳥本隊を新政府軍が奇襲するが、押し返される

四度とも旧幕府軍の勝ちでした。香川の救援隊は事実上くずれ、宇都宮の守りは手薄になります。結城市武井には、このとき戦死した館林藩兵の墓が残っています。

4月19日:宇都宮城が一日で落ちる

19日の未明、土方歳三らの別動隊が宇都宮城下の東南から攻めかかりました。途中の砂田村では、守っていた彦根藩の小隊を急襲しています。かつて幕府の筆頭の譜代大名だった井伊家の兵と、幕府のために戦おうとする新選組が撃ち合ったのです。

守りの薄い東南から攻め込まれた宇都宮藩は、城を捨てて退くことに決め、二ノ丸の御殿に自ら火を放ちました。旧幕府軍も進みながら城下に火を放ち、折からの強い南東の風にあおられて、城と城下の大半が焼けてしまいます。二荒山神社もこのとき焼けました。その日の夕方、宇都宮城は旧幕府軍のものになりました。

枝越しに見上げる宇都宮城の土塁と復元櫓
枝越しに見上げる土塁と復元櫓。4月19日、この土塁の内側が焼けた

4月20日〜22日:壬生へ、安塚の戦い

大鳥の本隊も宇都宮に入り、旧幕府軍はひとつにまとまりました。けれども、新政府軍の援軍は南の壬生城に集まりはじめていました。薩摩藩・長州藩・大垣藩・鳥取藩・土佐藩の兵が、東山道を北へ急いでいたのです。

22日の未明、旧幕府軍は先手を打って、壬生城の北の安塚にあった新政府軍の陣地に攻めかかりました。雨のなかの戦いになりましたが、ここで押し切ることはできず、宇都宮へ引き返します。小山からの勢いは、安塚で止まりました。

4月23日:宇都宮城を奪い返される

23日の早朝、援軍をそろえた新政府軍が宇都宮城の奪還にかかります。薩摩藩と大垣藩を中心とする部隊が六道辻の方面から攻め寄せ、城の南の松が峰門のあたりでは激しい撃ち合いになりました。この戦いには、のちに日露戦争で日本の陸軍を率いる大山巌(大山弥助)と野津道貫(野津七次)も加わっています。

松が峰門を守っていた土方歳三は、この日、足に銃弾を受けて戦線を離れました。夕方には新政府軍の総攻撃を受け、旧幕府軍は城を捨てて日光の方へいっせいに退きます。旧幕府軍が宇都宮城を保てたのは、わずか4日でした。

水堀ごしの宇都宮城と、堀の外に立ち並ぶ現代のビル
水堀ごしの城と、堀の外のビル。焼けた城下は、明治以降に新しい町として建て直された

戦いのあと ― 日光、そして会津へ

日光にはこもれなかった

宇都宮を追われた旧幕府軍は日光に入りましたが、日光にたてこもって戦うことはしませんでした。東照宮のある聖地を戦場にすることを避けたともいわれます。旧幕府軍は今市を経て会津領へ入り、こんどは会津藩とともに、日光口や白河口で新政府軍と戦うことになります。

このとき日光口で大鳥圭介とともに戦ったのが、伝習隊の士官だった沼間守一です。沼間は3月に一足早く江戸を脱走して会津で部隊を作っていたため、宇都宮城の戦いそのものには加わっていません。

土方歳三は会津で療養

足を撃たれた土方歳三は、会津で傷を養うことになりました。そのため、このあとの白河口の戦いには、土方ではなく斎藤一(山口次郎)が新選組を率いて加わっています。土方がふたたび前線に立つのは、仙台を経て蝦夷地に渡ってからでした(箱館戦争)。

宇都宮は会津攻めの足場に

取り返された宇都宮城は、新政府軍の東山道軍が会津を攻めるための拠点になりました。宇都宮を出た新政府軍は大田原を経て北へ進み、閏4月25日には白河の南の白坂口に攻め寄せます。宇都宮の4日間が終わったところから、東北の戦争が始まったのです。

この戦いが示したもの

宇都宮城の戦いは、勝っていた側が、援軍の差で押し返された戦いでした。伝習隊を中心とする旧幕府軍は、小山で四度勝ち、宇都宮城も一日で落としました。洋式の訓練を受けた部隊がどれほど強かったかがよくわかります。けれども、その強さを支える補給も援軍もありませんでした。新政府軍のほうは、負けても負けても東山道から次の部隊が送られてきます。

そして、この戦いでいちばん苦しんだのは、宇都宮の町の人びとだったかもしれません。城を捨てる宇都宮藩が火を放ち、攻める旧幕府軍も火を放ち、城下の大半が焼けました。どちらが勝っても、町は戦いの通り道になったのです。

現地を歩く ― 宇都宮城址公園

宇都宮城の跡は、いま宇都宮城址公園になっています。明治に城の一帯が払い下げられて姿を消しましたが、平成になって本丸の土塁と堀の一部、富士見櫓と清明台の二つの櫓が復元されました。城の南西の六道辻には、この戦いで亡くなった人たちの戦死墓が残っています。宇都宮城の歴史と五日間の攻防については【現地取材】宇都宮城と太平山を歩くで詳しく書いています。

筆者の感想

宇都宮城には何度か足を運んでいます。水堀も比較的幅が広く規模の大きなお城で、平城ですが一見すると堅固な城のようにも見えました。ここで新政府軍と旧幕府軍が激しい戦火を交えたんですよね。大鳥や土方など幕末を生きた旧幕府側の人々をつい思ってしまいます。

ただ私の感覚とは裏腹に、資料を読むと宇都宮は守りに適していないという記載が多くありました。だから日光東照宮へ退いたのだと。もちろんそれだけではないのでしょうけど。旧幕府軍には洋式の部隊もいましたが、なにしろ補給が続かなかったのかな。だから局地戦では勝っても大局では敗れて退いていくしかなかったのでしょうかね。補給と援軍のめどさえついていれば、守り切ることもできたのにと思いました。会津や米沢、仙台からは遠いですもんね。近隣に頼りになる幕府方の藩もいないですし。

▶ この戦いの地を旅するなら

筆者が実際にめぐった旅の記録を、姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で紹介しています。

あわせて読みたい

参考資料

  • 宇都宮市「宇都宮城の戦い」(戊辰戦争と宇都宮)
  • 古河市『広報こが』(小山の戦い)
  • 大山柏『補訂 戊辰役戦史』(時事通信社、1968年)
  • 大鳥圭介『南柯紀行』

文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)
※進軍図はイラストです

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