宮古湾海戦とは?回天が甲鉄に斬り込んだ箱館戦争の海戦を図解でわかりやすく

明治2年3月25日の夜明け、岩手県の宮古湾。旧幕府の軍艦回天が、停泊していた新政府の艦隊に単独で突っ込み、最新鋭の装甲艦甲鉄を乗っ取ろうとしました。わずか30分ほどで終わったこの戦いが「宮古湾海戦」です。

この記事では、箱館戦争のなかで起きたこの海戦を、航路図とイラスト、両艦隊の比較表で解説します。宮古市に残る石碑については宮古湾海戦の碑の記事で詳しく書いています。

目次

宮古湾海戦とは?ひとことで言うと

箱館の旧幕府軍が、新政府の装甲艦「甲鉄」を奪うために、宮古湾に停泊中の新政府艦隊へ斬り込んだ戦いです。日本で初めての本格的な洋式海戦とも呼ばれます。

日時明治2年3月25日(1869年5月6日)の夜明け、午前5時ごろから約30分
場所陸中国・宮古湾(現在の岩手県宮古市)
旧幕府軍回天(艦長・甲賀源吾)。指揮は海軍奉行・荒井郁之助。土方歳三も乗艦
新政府軍甲鉄・春日・陽春・丁卯の軍艦4隻と輸送船4隻
結果旧幕府軍の失敗。甲賀源吾らが戦死し、別行動の高雄も失う

なぜ甲鉄を奪おうとしたのか

開陽丸を失った旧幕府艦隊

箱館戦争の最初の冬、旧幕府軍は最強の軍艦開陽丸を江差の沖で座礁させ、失っていました。残った艦は回天、蟠竜、高雄、千代田形など。いずれも開陽丸には遠く及びません。

北へ向かう新政府艦隊と「甲鉄」

一方の新政府は、明治2年2月、アメリカから装甲艦甲鉄を手に入れます。もとは南北戦争のためにフランスで造られた、鉄の装甲をまとった軍艦です。3月、甲鉄を旗艦とする艦隊が品川を出て、箱館攻撃の拠点となる青森へ向かいました。途中で補給のため立ち寄ったのが、宮古湾でした。

甲鉄が加われば、海の力の差は決定的になります。逆に言えば、甲鉄を奪ってしまえば形勢を一気に逆転できる。こうして考え出されたのが、敵の軍艦に横付けして兵が乗り込み、そのまま奪い取る「アボルダージュ(接舷攻撃)」でした。旧幕府軍に加わっていたフランス人ニコールの発案を、荒井郁之助や甲賀源吾らが作戦にまとめ、ブリュネと榎本武揚が承認しました。

両艦隊を比べる

まず、この海戦にかかわった艦隊の規模を比べてみます。数字は資料によって違うものが多く、わかる範囲でまとめました。

旧幕府艦隊新政府艦隊
軍艦3隻(回天・蟠竜・高雄)。実際に突入できたのは回天1隻だけ4隻(甲鉄・春日・陽春・丁卯)
輸送船なし4隻(戊辰丸・晨風丸・飛龍丸・豊安丸)
人員斬り込み用の陸兵約100人(神木隊・彰義隊など)を3隻に分乗。総勢約500人とする英語の資料もある水兵・士官あわせて約2,500人とする英語の資料がある。乗っていた陸兵の数ははっきりしない
戦死者19人(負傷約30人)とする辞典、15人とする資料がある8人とする辞典、4人とする資料がある。ほかに戊辰丸で行方不明14人

次に、軍艦一隻ずつの比較です。「定員」は時期の違う記録も含むため、目安としてご覧ください。

艦名側排水量推進砲定員
回天旧幕府1,678トン外輪11門(ほかに榴弾砲2門)211人
蟠竜旧幕府370トンスクリュー4門(6門とする資料も)94人
高雄旧幕府不明蒸気船30ポンド砲・24ポンド砲(門数不明)投降時95人
甲鉄新政府約1,358トン(1,800トンとする資料も)スクリュー(2軸)3門(300ポンド砲1・70ポンド砲2)135人(明治6年)
春日新政府(薩摩藩)不明外輪不明130人(明治6年)
陽春新政府(秋田藩)691トン不明不明102人(明治2年4月)
丁卯新政府(長州藩)不明スクリュー不明不明

輸送船のうち、戊辰丸は徳島藩の船(約519トンのスクリュー汽船)、晨風丸は久留米藩の船です。

こうして並べると、回天は排水量でも砲の数でも甲鉄を上回っています。それでも甲鉄が恐れられたのは、鉄の装甲があったからです。木造の回天の砲弾は、甲鉄の装甲をほとんど通しません。だからこそ旧幕府軍は、大砲の撃ち合いではなく、乗り込んで奪うという方法を選んだのです。

戦いの流れ ― 嵐、合流、そして突入

宮古湾海戦の航路図。箱館を出た回天・蟠竜・高雄が鮫(八戸)で嵐にあい離散、回天と高雄が山田湾で合流し、回天が宮古湾に突入した経路
宮古湾海戦の航路図。北から鮫(八戸)・田野畑・宮古湾・山田湾の順に並ぶ。位置関係はおおよそです

3月21日:箱館を出航、嵐で離散

3月21日未明、回天・蟠竜・高雄の3隻は、大綱でつながって箱館を出航しました。22日、八戸の鮫村に寄港して情報を集めます。ところがその夜、暴風雨にあって大綱が切れ、艦隊はばらばらになってしまいました。

3月24日:回天と高雄だけが山田湾で合流

24日、回天と高雄はなんとか合流し、宮古湾の南にある山田湾に入ります。蟠竜は鮫村の沖で待っていたため、作戦に間に合いませんでした。しかも高雄は嵐で機関を傷めていました。予定していた3隻での作戦は、ここで崩れます。

3月25日の夜明け:回天、単独で突入

それでも旧幕府軍は作戦を決行します。25日の午前5時ごろ、回天はアメリカの国旗を掲げて宮古湾に入りました。新政府艦隊に怪しまれないための偽装です。そして甲鉄に近づいた瞬間、旗を日章旗に替えて突進しました。

ここで大きな誤算が起きます。回天は船体の両側に大きな水車(外輪)をつけた外輪船で、甲鉄の真横にぴったり横付けすることができませんでした。回天は船首から甲鉄の左舷に斜めに乗り上げる形になり、しかも回天の甲板は甲鉄より3メートルほども高かったのです。

斬り込み隊は、細い船首から一人また一人と、低い甲鉄の甲板へ飛び降りるしかありませんでした。甲鉄の側は、乗り込んでくる兵を狙い撃ちにします。このとき甲鉄のガトリング砲(機関砲)が猛威をふるったと長く言われてきましたが、甲鉄の乗組員だった山県小太郎は「ガトリング砲ではなく小銃で撃った」と証言しており、決着はついていません。

甲賀源吾の戦死と撤退

斬り込んだ兵は次々に倒れ、新選組の野村利三郎らが甲鉄の上で戦死しました。回天の艦長・甲賀源吾は、腕と胸を撃たれても指揮を続けましたが、ついに頭を撃ち抜かれて戦死します。

これ以上は無理と判断した荒井郁之助は作戦の中止を決め、自ら舵を取って回天を甲鉄から引き離しました。戦いはおよそ30分。回天は追ってくる新政府艦隊を振り切り、途中で蟠竜と合流して、26日の夕方に箱館へ戻りました。この回天には、陸軍奉行並の土方歳三も検分役として乗っていました。

高雄の最期

三陸の断崖の海岸で岩礁に乗り上げて燃える高雄と、上陸してそれを見つめる乗組員たち(イラスト)
田野畑の浜で最期を迎えた高雄。乗組員は自ら船に火を放って上陸した(イメージイラスト)

機関が不調だった高雄は、宮古湾に入る前に回天から遅れていました。海戦のあと、高雄は甲鉄と春日に追われます。逃げきれないと判断した艦長の古川節蔵は、田野畑村の羅賀の浜へ向けて船を走らせ、岩礁に乗り上げました。乗組員は上陸して自ら船に火を放ち、のちに盛岡藩に投降しています。

戦いのあと

宮古湾海戦の失敗で、旧幕府軍が海の力の差をひっくり返す道は閉ざされました。甲鉄を加えた新政府艦隊は青森に集まり、4月9日、陸軍を乙部に上陸させます。ここから箱館戦争は最後の局面に入っていきます(箱館戦争とは)。

この海戦には、のちの歴史につながる人物も居合わせていました。新政府の春日に砲術士官として乗っていたのが、21歳の東郷平八郎です。東郷は、敵の思いもよらない奇襲の衝撃を後年まで忘れず、日本海海戦の采配にも生かしたと言われます(記念艦三笠と東郷平八郎)。

この戦いが示したもの

宮古湾海戦は、作戦としては見事な発想でした。勝てない相手の最強の艦を、まるごと奪ってしまう。もし成功していれば、箱館戦争の行方は変わっていたかもしれません。

けれども、作戦は嵐で3隻がそろわず、機関の故障があり、外輪船では横付けできないという船の形の問題まで重なって失敗しました。どれも、海の上では人の力ではどうにもならないことばかりです。開陽丸を嵐で失ったのと同じように、旧幕府艦隊はここでも海そのものに勝てませんでした。乗り込んで戦うという昔ながらの勇気と、装甲艦という新しい時代の兵器がぶつかった。宮古湾海戦は、そういう戦いだったと思います。

現地を歩く ― 宮古港海戦記念碑

宮古港海戦記念碑。錨をかたどったモニュメントと海戦の解説板
宮古港海戦記念碑(浄土ヶ浜・御台場展望台入口)。錨のモニュメントの奥に解説板が立つ

宮古市の浄土ヶ浜、御台場展望台の入口に建つのが「宮古港海戦記念碑」です。明治百年を記念して、昭和43年(1968年)に建てられました。錨をかたどったモニュメントの奥に、海戦の解説が刻まれています。宮古市内には、このほか東郷平八郎の題字による「宮古港戦蹟碑」(大杉神社)や、臼木山の解説碑もあります。詳しくは宮古湾海戦の碑の記事をご覧ください。

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場所・アクセス

宮古港海戦記念碑:岩手県宮古市日立浜町32(浄土ヶ浜・御台場展望台の入口)。JR宮古駅から車で約10分。

文:佐藤秀信/記念碑の写真:佐藤秀信(現地で撮影)
※航路図・イラストはイメージです

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