戊辰戦争で、新政府軍が海から攻め込んだ戦場があります。慶応4年6月、品川を出た船が常陸と陸奥の境にある平潟の港に着き、兵を陸に揚げました。そこから一か月足らず、7月13日の深夜に磐城平城は自ら火を放って落ちます。これが「磐城の戦い」です。
この記事では、平潟の上陸から磐城平城の落城までを、なぜ海から攻めたのか、どう戦われ、どう終わったのかの順に、進軍図とあわせて解説します。天童の戦い、新庄の戦い、秋田戦争に続いて、今回は太平洋側、浜通りの戦いです。
磐城の戦いとは?ひとことで言うと
白河口の戦いを側面から助けるため、新政府軍が平潟に上陸し、磐城平藩・湯長谷藩・泉藩と、援軍の仙台藩・相馬中村藩などの同盟軍を破って、浜通りの南半分を押さえた戦いです。磐城平城は二度の攻撃を退けましたが、三度目の総攻撃で弾薬が尽き、家老たちは城に火を放って北へ退きました。
| 期間 | 慶応4年6月16日〜7月13日(1868年8月4日〜8月30日)。このあと浜通りを北上し、8月7日の相馬中村藩の降伏まで続く |
|---|---|
| 場所 | 常陸国平潟(現在の茨城県北茨城市)から陸奥国磐城平(現在の福島県いわき市)まで |
| 同盟軍 | 磐城平藩・湯長谷藩・泉藩、仙台藩、相馬中村藩、米沢藩、旧幕府の遊撃隊・純義隊 |
| 新政府軍 | 薩摩藩・大村藩・佐土原藩・岡山藩・柳河藩・笠間藩・鳥取藩・郡山藩など。13日の総攻撃では約3,000名 |
| 結果 | 新政府軍の勝利。泉陣屋・湯長谷陣屋に続き、磐城平城が焼け落ちる |
なぜ海から攻めたのか
白河口を助けるための上陸作戦
慶応4年の夏、奥州へ攻め込む新政府軍の正面は白河口でした。白河では新政府軍が勝ちを重ねていましたが、兵の数が足りません(白河口の戦い)。そこで新政府は、江戸の守りを組み替えて新しい一軍をつくり、白河の東、太平洋岸の平潟に敵の目の前で上陸させる作戦を立てました。
平潟を押さえれば、浜通りを北へのびる浜街道を使えます。磐城平藩や相馬中村藩に圧力をかけ、さらにその北の仙台藩にまで手が届く。白河口の背後を守ることにもなりました。
船が足りなかった
問題は船でした。兵を運べる船は三邦丸・富士山丸・飛隼丸の三隻しかなく、品川と平潟のあいだを何度も行き来させるしかありません。上陸は一度にではなく、何回にも分けて行われました。上陸した兵は、次の船が着くまで、わずかな人数で浜を守らなければならなかったのです。

迎え撃つ浜通りの諸藩
浜通りの南には、磐城平藩(安藤家)・湯長谷藩(内藤家)・泉藩(本多家)の三藩が並んでいました。三藩とも奥羽越列藩同盟に加わっていましたが、事情は同じではありません。
磐城平藩では、藩主の安藤信勇が国元におらず、隠居の安藤信正が城を預かっていました。老中として和宮の降嫁を進め、坂下門外の変で傷を負って退いた、あの信正です。一方、湯長谷藩と泉藩は藩の意見が割れていましたが、北と西を同盟の大藩に囲まれていたため、新政府に付くことはできませんでした。泉藩では、新政府に従うべきだと訴えて自刃した藩士もいたといわれます。
両軍の顔ぶれと兵力
| 同盟軍 | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 主力 | 磐城平藩(家老・上坂助太夫)、湯長谷藩、泉藩 仙台藩(参謀・古田山三郎ら) 相馬中村藩(相馬将監胤真) 米沢藩(江口縫殿右衛門) 遊撃隊(人見勝太郎・林忠崇)、純義隊(渡辺綱之助) |
第一陣:薩摩藩・大村藩・佐土原藩 第二陣:岡山藩・柳河藩 第三陣:笠間藩 第四陣以降:鳥取藩・郡山藩・薩摩藩の増援など |
| 兵力 | 仙台藩は浜通りに14小隊を分けて置き、のちに3大隊を船で送る。相馬中村藩は7小隊と大砲1門を平城へ。落城の日の城内には磐城平藩兵と相馬兵200名ほど | 第一陣1,000余名、第二陣で約1,500名。13日の総攻撃では約3,000名にふくらむ |
| 指揮 | ― | 参謀・木梨精一郎(長州)、渡辺清(大村藩)、のちに河田景与(鳥取藩)。仙台追討総督・四条隆謌は7月22日に着任 |
はじめは同盟軍のほうが人数で勝っていました。けれども新政府軍は、船が着くたびに兵を増やし、薩摩藩を中心に新しい銃をそろえていました。同盟軍は火縄銃が多く、元込めの銃を持っていたのは米沢藩の部隊くらいだったといわれます。数で押し返せるうちに押し返せなかったことが、この戦いの行方を決めていきます。
戦いの流れ ― 平潟から磐城平へ

6月16日:平潟に上陸
6月13日に品川を出た船が平潟の沖に着いたのは16日でした。第一陣は薩摩藩・大村藩・佐土原藩の1,000余名です。
平潟のすぐ西、勿来の関には仙台藩の2小隊50名ほどがいました。ところが隊長はなぜか兵を動かさず、上陸を見ているだけだったといいます。新政府軍は村人にお金を払って荷揚げを手伝わせ、子どもたちにはビスケットを配ったという話も残っています。こうして新政府軍は、ほとんど妨げを受けずに平潟を手に入れました。
6月17日〜24日:浜を守り、援軍を待つ
- 6月17日:平潟の北の関田に、仙台・磐城平・泉の各隊と遊撃隊が攻め寄せるが、薩摩藩が退ける
- 6月20日:第二陣の岡山藩302名・柳河藩317名が着き、新政府軍は約1,500名に
- 6月24日:同盟軍が鮫川を渡って八幡山に陣を取るが、岡山藩・薩摩藩・柳河藩に押し返される
関田の戦いのあと、仙台藩と遊撃隊は、負けたのは相手が先に崩れたからだと、たがいに責め合ったと伝わります。同盟軍は人数で勝っていながら、新政府軍を海へ追い落とす機会を逃しました。翌25日には、白河口の板垣退助が棚倉城を落としたという知らせが平潟に届きます。
6月28日:泉陣屋が落ちる
援軍をそろえた新政府軍は、28日に二手に分かれて北へ動き出します。薩摩藩・岡山藩・大村藩は海沿いの道を泉藩へ、柳河藩・佐土原藩は浜街道を湯長谷藩へ。薩摩藩は部隊を分けて回り込み、待ち構えていた同盟軍を二度にわたって挟み撃ちにしました。泉陣屋に着いたとき、藩主の本多忠紀はすでに退いたあとで、陣屋は戦わずに新政府軍のものになります。

6月29日:湯長谷陣屋が落ち、平城への第1次攻撃
29日の昼ごろまでに、佐土原藩と岡山藩が湯長谷陣屋を攻め落とします。湯長谷藩の兵の多くは藩主の内藤政養とともに別の場所にいて、陣屋はほとんど空でした。新政府軍の兵は陣屋の中で昼食をとり、午後1時すぎには磐城平へ向けて出発したと、いわき市の資料は書いています。

新政府軍は湯本と内郷の境の堀坂で同盟軍を破り、平城下の南西、長橋の手前まで迫りました。しかし新川をはさんだ対岸の土塁には仙台藩が、高台の薬王寺台(いまの松ヶ岡公園)には各藩の援軍が陣取り、磐城平藩の大砲隊が後ろから撃ちかけます。夕方、戦いは引き分けに終わりました。
同じ日、海沿いでは、小名浜に船で着いたばかりの仙台藩の一大隊が薩摩藩・大村藩に崩されます。沖の船へ逃げようとした兵は、潮が引いて小舟が浜へ押し戻され、浜から撃たれました。仙台藩の戦死者は64人(121人とする説も)。新政府軍の死者は1人でした。
7月1日:第2次攻撃を退ける
7月1日の朝、今度は小名浜から薩摩藩と大村藩が平城の南に現れます。同盟軍は稲荷台に大砲と新しい銃を並べて待ち受け、新政府軍は昼を過ぎても前に進めません。弾薬が残り少なくなった新政府軍が兵を引きかけたところへ、夕方、米沢藩などの部隊が長橋を渡って背後を突き、新政府軍は小名浜へ退きました。
磐城平藩士たちは、この日のことを「大勝利」と書き残しています。いわき市の資料には、敵が蜘蛛の子を散らすように逃げたという藩士の記録も紹介されています。磐城平藩がこの戦いで勝ったと言えるのは、この日だけでした。ただ同盟軍のほうも、守る側でありながら仙台藩だけで30人が戦死しています。
7月3日〜12日:倍にふくらむ新政府軍
二度の攻撃をしのいだ同盟軍でしたが、時間は新政府軍の味方でした。
- 7月3日:鳥取藩・岡山藩・郡山藩が着く(第四陣)。鳥取藩の河田景与が参謀に加わる
- 7月9日:大砲隊を含む薩摩藩469名が着く(第五陣)
- 7月11日:白河口から板垣退助らが平潟に来て、平城攻めを急がせる。同じ日、米沢藩は平城にいた元込め銃の3小隊を北の四倉へ引き上げる
- 7月12日:鳥取藩700余名が着く(第六陣)。新政府軍の兵はほぼ倍になった
一方、同盟軍にはまとまった援軍が入りませんでした。四倉まで来た米沢藩の江口縫殿右衛門は、平城から入城を求められても、砲声が聞こえたら必ず助けに行くと言うばかりで動かなかったといいます。
7月13日:三方からの総攻撃
13日の夜明け、新政府軍は三つの道から平城下へ攻め込みます。海沿いの沼ノ内からは薩摩藩、小名浜から鹿島街道を北へは渡辺清が率いる薩摩・大村・鳥取藩、湯長谷から堀坂を越えては佐土原・岡山・鳥取藩。北の道だけはわざと空けておきました。新政府軍がほしかったのは敵を全滅させることではなく、城そのものだったからです。
この日は未明から霧が深く、昼には激しい雷雨になりました。火縄銃の多い同盟軍には、ひどく不利な天気です。城の外の陣地は次々に破られ、昼ごろには同盟軍の全部隊に城の中へ退けという命令が出ました。新川町・立町・田町・才槌小路、そしていまのいわき駅のあたりまでが戦場になっています。
隠居の安藤信正は、家臣たちに説かれて、この日のうちに城を出て北へ逃れたとされます。仙台藩の兵の多くも信正を守って城を離れ、城に残ったのは磐城平藩の兵と、相馬中村藩の相馬将監胤真が率いる200名ほどの兵だけになりました。

六間門の米俵
いちばん激しかったのが、城の西の大手にあたる六間門の戦いです。相馬将監の兵が守る門に、新政府軍の大砲と小銃の弾が浴びせられ、外側の高麗門は閂が折れて扉が開いてしまいました。
土俵を持って来いという声が飛びましたが、すぐには用意できません。守備兵たちは城の米蔵から米俵を15、6俵運び出し、扉の前に積み上げて弾よけにして撃ち合いを続けたと、磐城平藩士の神谷外記が書き残しています。夕方には家老の上坂助太夫が自ら兵を率いて打って出て、新政府軍はあたりの屋敷に火を放って退きました。
落城 ― 最後の軍議
弾薬が尽きた
日が暮れると、新政府軍の参謀は夜戦を避けて兵を引くよう命じました。けれども薩摩藩の一部は城門に張りついたまま、夜になっても撃ち続けます。城の中の人数は少なく、交代で休むこともできません。
本丸御殿で開かれた軍議では、弾薬はほとんど残っておらず、明日はもう戦えないという報告が出されました。相馬将監も、城に残るのは磐城平藩と相馬の200人ほど、弾は2,000発ほどしかない、米沢藩の援軍が来なければ明日は戦えないと述べ、城を出るべきだと説きました。
城に残ると言った家老
城を出ることが決まりかけたそのとき、上坂助太夫は、殿からこの城を預かった身として自分ひとりが残って討ち死にする、皆は城を出て御隠居様(信正)を守ってほしい、と言い出します。家臣たちが止めても、上坂の決意は変わりませんでした。
上坂は相馬将監のもとへも行き、同じことを告げます。すると将監は、ここで城を出ても相馬の地で再び戦う日は来る、それでも残ると言うのなら、同盟を結んだ者として自分も一歩も引かず、ともに城を枕に討ち死にする、と答えました。自分の藩の兵まで道連れにすると言われて、上坂はようやく城を出ることを受け入れたと、藩士の記録は伝えています。
夜半、城に火を放つ
7月13日の夜12時ごろ、上坂や将監たちは大手門から城を出て、北の平窪村の方へ向かいました。足の丈夫な者を4、5人だけ城に残し、一行が半里(2kmほど)離れたころを見はからって城に火をつけさせます。
藩の儒者・神林惺斎は、三ノ丸から丹後沢を抜けて城を離れました。振り返ると、燃え上がる城の炎で、まわりの山々がすべて明るく照らされていたと書いています。火の手を見た薩摩藩の兵はすぐに城へ入りましたが、翌14日の朝、本丸に敵の姿はありませんでした。

この日の戦死者は、新政府軍が16人。同盟軍は磐城平藩が58人、相馬中村藩が25人、仙台藩が7人を数えたとされます。
戦いのあと ― 浜通りの北上と、それぞれの処分
相馬中村藩の降伏まで
平城が落ちると、四倉にいた同盟軍は北の相馬領へ退きました。新政府軍は7月22日に総督の四条隆謌を迎え、長州藩・福岡藩などの援軍を加えて浜通りを北へ進みます。広野、浪江と戦いが続き、相馬将監は7月26日の広野の戦いで重い傷を負って亡くなりました。8月7日、相馬中村藩が降伏し、浜通りはすべて新政府軍のものになります。
平潟の軍を支えてきた薩摩藩などの部隊は、途中で分かれて西の三春・二本松へ向かい、白河口の軍と合流しました。海から入った一軍が、最後は会津攻めの一翼を担ったことになります。
三藩の処分
- 磐城平藩:7万両を新政府に納めることで、領地はそのまま残された
- 湯長谷藩:1万5千石から1万4千石へ減らされる
- 泉藩:2万石から1万8千石へ減らされる
平城の跡には明治の初めに民政局が置かれ、やがて城の跡は切り売りされて家が建っていきました。
この戦いが示したもの
磐城の戦いは、海を使える側が、時間を味方につけた戦いでした。同盟軍は人数で勝っていた最初の数日に新政府軍を海へ落とせず、7月1日には平城の前で新政府軍を退けもしました。けれども新政府軍は、負けても船で兵を運び続け、二週間で兵を倍にします。同盟軍のほうは援軍がそろわず、米沢藩は四倉から動かず、仙台藩は戦いのたびに兵を減らしていきました。
そして最後の夜、城に残ったのは磐城平藩の兵と、隣の相馬藩の200人だけでした。自分の藩の城でもないのに、ともに討ち死にすると言って上坂を城から連れ出した相馬将監は、そのわずか十三日後、広野で命を落とします。浜通りの小さな藩どうしが、最後まで肩を並べていた。この戦いのいちばん忘れがたい場面は、そこにあるように思います。
現地を歩く ― 磐城平城跡と、湯長谷・泉の陣屋跡
磐城平城跡
磐城平城の跡は、いわき駅の北側の高台にあります。本丸跡には入れませんが、周りには石垣や土塁、堀の名残があり、北側の堀は丹後沢公園として歩くことができます。落城の夜に神林惺斎が抜けていった、あの丹後沢です。本丸跡のすぐそばまで家が建ち並んでいて、明治に城の跡が切り売りされたことが、いまの町並みからもうかがえます。


湯長谷陣屋跡
湯長谷陣屋の跡は中学校の敷地になっていて、周りに堀の跡と説明板が残ります。6月29日、新政府軍が昼食をとってから磐城平へ向かったのが、この陣屋でした。


泉陣屋跡(泉城址)
泉陣屋の跡は住宅地の中で、「泉城址」の標柱と碑、藩主・本多忠籌にちなむ「赤玉本多」の碑が立っています。6月28日、藩主が退いたあとに新政府軍が入った場所です。


三つの跡と、説明板に書かれていることは【現地取材】いわきの三藩を歩くで詳しく書いています。
筆者の感想
磐城平城跡には、スパリゾートハワイアンズの帰りに立ち寄りました。ちょうど工事中でしたが、広い敷地の中で本丸は小高い位置にあり、堅固なつくりに見えました。それでも、昔の石垣の一部を見られたのはとてもうれしかったです。
湯長谷陣屋の跡は、本当に雑草や藪に囲まれていて、かろうじて小さなお堀が見られるくらいでした。まさに小藩の陣屋といった感じです。陣屋の説明看板はいちおう立っていましたが、もう少し手入れをして、遺構を残しながら公園にでもしたらよいのに、と思いました。この日は泉と湯長谷を回るのが精いっぱいで、新政府軍が上陸した平潟や勿来の関までは行けていません。
じつは、落城の夜に相馬将監が上坂助太夫を城から連れ出した話は、今回調べるまで知りませんでした。平にまつわる幕末の本があれば、ぜひ読んでみたいと思っています。
磐城平の城を最初に築いたのは鳥居家です。説明板にもあるとおり、慶長7年(1602)に鳥居忠政が入って城づくりを始めましたが、鳥居家はその後山形へ移り、さらに各地を転々とします。城の主も、鳥居のあとは内藤・井上・安藤と入れ替わってきました。幕末にこの城を守って焼いたのは、最後に入った安藤家の家臣たちだったのです。
▶ この戦いの地を旅するなら
筆者が実際にめぐった旅の記録を、姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で紹介しています。
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- 磐城平藩
- 湯長谷藩
- 泉藩
- 笠間藩
- 奥羽越列藩同盟とは
参考資料
- いわき市『史跡磐城平城跡 保存活用計画』第3章「磐城平城の歴史」(磐城平城と戊辰戦争)
- 同 第4章「明治時代以降の磐城平城」
- いわき歴史文化研究会編『古文書が語る磐城の戊辰戦争』(平安会、2018年)
- 大山柏『補訂 戊辰役戦史』(時事通信社、1968年)
- Wikipedia「磐城の戦い」
文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)
※進軍図はイラストです



