湯長谷藩の歩み
本家にあたる磐城平藩の内藤家は、延享四年(1747年)に日向の延岡へ移されましたが、分家の湯長谷藩の内藤家はそのまま領地にとどまり、幕末まで続きました。歴代の藩主の多くは、他家から迎えた養子です。
十代藩主の内藤政民が藩校の致道館を開き、自ら四書五経を講じたと伝わるほかは、幕末まで目立った出来事はありませんでした。地元では「名君の多い藩だった」と語られています。他家から迎えられた藩主が多く、それぞれが期待に応えようと努めたためかもしれません。ただし、これは推測です。
安政二年(1855年)、商人の片寄平蔵が、藩領の磐前郡白水村(いまのいわき市内郷白水町)で石炭を見つけました。これがのちに常磐炭田として大きく発展する始まりです。十三代藩主・内藤政養のときに幕末の動乱を迎え、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わって各地に兵を出したため、湯長谷陣屋は新政府軍に攻め落とされました。
藩主「内藤政養」は仙台藩に逃れるがのちに降伏し、千石を召し上げられて「謹慎処分」を受けました。明治二年(1869年)になると養子「内藤政憲」が内藤家を継ぐことが認められ第14代藩主となりました。明治四年(1871年)の「廃藩置県」により他の藩同様に「湯長谷藩」も廃藩となりました。
同じころの日本—寛文の伊達騒動
湯長谷藩の始まりのころ 湯長谷藩が磐城平藩から分かれて立藩した寛文年間、東北の大藩・仙台藩では、藩主の跡継ぎと家臣の対立をめぐる激しいお家騒動が起きていました。「伊達騒動」です。寛文十一年(1671)、幕府の大老・酒井忠清の屋敷で行われた審理のさなか、仙台藩の重臣・原田甲斐が刃を抜いて斬りつけ、自らも斬られて死ぬという事件が起きました。
騒動のその後 この事件で原田の家は断絶しましたが、伊達家そのものは取りつぶされずに済みました。のちにこの騒動は歌舞伎『伽羅先代萩』の題材となり、広く知られることになります。湯長谷藩が生まれたのは、こうして東北の大名家の存続が揺らいだ時代でした。
湯長谷の現地を歩いた記録
この地の戊辰戦争の流れは、磐城の戦いとは?平潟に上陸した新政府軍が磐城平城を落とした戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすくで、進軍図とあわせて解説しています。
湯長谷藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。
場所・アクセス・地図
972-8317 福島県いわき市常磐下湯長谷町家中跡
湯長谷藩の成り立ち ― 磐城平藩の分家として
湯長谷藩(ゆながやはん)は、陸奥国磐城の地に置かれた小藩で、磐城平藩の支藩として生まれました。寛文十年(1670)、磐城平藩主・内藤忠興の隠居にあたり、その次男・政亮が磐前郡・菊多郡のうちに一万石を分け与えられて立藩しました。当初は湯本に藩庁を置き、政亮は本家に遠慮して「遠山」姓を名乗ったといいます。延宝四年(1676)に湯長谷城(陣屋)が築かれ、藩庁が移されました。
内藤(遠山)家の歩み
湯長谷藩は、立藩から廃藩まで一貫して内藤(遠山)家が治めました。初代・政亮は一万石で始まり、のちに丹波や河内などにも加増を受けて一万五千石となりました。以後、石高は一万四千石ほどに調整されつつ、十四代にわたって家督が受け継がれていきます。本家・磐城平藩の内藤家とともに、磐城の地に根を張った一族でした。四代・政醇は忠孝・倹約を旨とする藩法を定め、十代・政民は藩校「致道館」を創設して、小藩ながら文教にも力を注ぎました。
江戸期のできごと ― 常磐炭田の芽
湯長谷の名を後世に残すことになったのが、石炭です。安政二年(1855)、商人・片寄平蔵が領内の白水村で石炭を発見しました。これが、のちに日本有数の炭鉱地帯となる常磐炭田の礎となります。武家の世が終わろうとするまさにその頃、次の時代の産業の種が、この小さな藩の土の下から芽吹きはじめていたのです。
幕末の湯長谷藩 ― 奥羽越列藩同盟へ
幕末、幼くして藩主となった内藤政養のもと、湯長谷藩は奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と敵対する道を選びました。一万数千石の小藩ながら、藩兵は各地へ転戦して同盟軍の一翼を担いました。しかし、圧倒的な新政府軍の前に、ついに湯長谷は攻め落とされます。藩主・政養は仙台へ逃れて降伏し、戦後、一千石を召し上げられたうえ謹慎を命じられました。
落城、そして廃藩
降伏後、養子の政憲が明治二年(1869)に第十四代藩主として認められ、家名はかろうじて保たれました。しかし明治四年(1871)の廃藩置県により、約二百年続いた湯長谷藩はその歴史を閉じました。小藩ゆえに時代の荒波をまともに受け、戦火に城を失いながらも、同盟の義を貫いた藩でした。
陣屋跡を歩く ― 現地の説明板から
令和六年(2024)四月、湯長谷陣屋の跡を訪ねました。陣屋の跡地はいまは中学校の敷地になっていますが、周囲には堀の跡が残り、「湯長谷陣屋」の説明板と「湯長谷藩御陣屋配置図」の案内板が立っています。

説明板には、次のようなことが書かれていました。
- 陣屋は、初代藩主の遠山政亮が延宝四年(1676)の御国入りのときに、下湯長谷村に陣屋と家臣屋敷を築くことを許されて建設を始め、翌延宝五年に完成した
- 戦国期の館跡に築かれ、七十五間に八十間の単郭式の敷地を、土塁と幅二間の堀が囲んでいた
- 天保九年(1838)の記録では、陣屋の周りに家臣の住まい、陣屋の下に町屋が三十軒あまりあった
- 周辺には藩主の菩提寺・龍勝寺が置かれ、小規模ながら城下町の体裁をとっていた。天保十四年(1843)には藩校の致道館も開かれた
- 陣屋が置かれた下湯長谷村は藤原川と湯本川の間にあり、毎年四月には陣屋下の町で馬のせり市が開かれていた

一万五千石の小藩の陣屋は、城と呼ぶには小さなものでした。それでも家臣屋敷・町屋・菩提寺・藩校をそなえた、ひとつの「城下町」だったことが、説明板の記述から読み取れます。
磐城平城・湯長谷陣屋・泉陣屋の跡を実際に歩いた記録は【現地取材】いわきの三藩を歩く—磐城平城・湯長谷陣屋・泉陣屋に残る戊辰戦争の跡で紹介しています。
湯長谷藩をもっと詳しく
立藩までのいきさつと「湯本藩」
湯長谷藩のはじまりは、寛文六年(1666年)に磐城平藩二代藩主・内藤忠興が、次男の政亮に二万石を分け与えたいと幕府に願い出たことにさかのぼります。実際に許されたのは寛文十年(1670年)十二月、忠興の隠居にあわせて磐前郡・菊多郡のうち一万石を分ける形でした。藩庁が湯本に置かれたため、立藩した当初は「湯本藩」とも呼ばれます。
その後の加増には理由がありました。延宝八年(1680年)、内藤忠勝の乱心事件を未然に防いだ功績などにより、丹波国氷上郡などで二千石を加増されたとされます。さらに貞享四年(1687年)に大坂定番に任じられ、河内国内で三千石を加えられて一万五千石となりました。政亮は元禄六年(1693年)に六十九歳で亡くなり、遠山政徳が跡を継ぎます。元禄期の大名評判記『土芥寇讎記』では、政亮は高く評価されています。三代・政貞の代に、遠山姓から内藤姓に戻りました。
領地のようす
幕末の領地は、陸奥国(磐城国)磐前郡のうち二十七村、菊多郡のうち六村が中心で、今の福島県いわき市の南部にあたります。陣屋のあった下湯長谷村は、いまのいわき市常磐下湯長谷町です。このほか遠く離れた丹波国にも、何鹿郡のうち一村、氷上郡のうち二村の飛び地がありました。丹波の飛び地には明治維新まで陣屋が置かれ、世襲の代官・依田氏が治めていました。
戊辰戦争での動き
十三代藩主・内藤政養は、安政四年(1857年)に十一代藩主・政恒の三男として生まれ、文久三年(1863年)に数え七歳で家督を継ぎました。慶応四年(1868年)四月三日、湯長谷藩はいったん新政府から会津攻めへの協力を命じられています。しかし五月には奥羽越列藩同盟に加わり、十二歳の政養も自ら戦場に立ったとされます。
六月二十九日、新政府軍の攻撃で湯長谷陣屋は落ち、政養は仙台城下へ逃れました。九月二十四日に降伏と謝罪を申し入れ、二十七日に認められて謹慎を命じられます。十月十日には東京へ移され、本家筋にあたる延岡藩の屋敷に預けられました。明治元年(1868年)十二月七日、政養は強制的に隠居させられ、所領は一千石減らされて一万四千石となりました。謹慎が解かれたのは明治二年(1869年)九月二十八日です。政養は明治四十四年(1911年)に五十五歳で亡くなっています。
最後の藩主と藩の終わり
跡を継いだ十四代・内藤政憲は、公家・大炊御門家孝の子です。はじめは谷衛滋の養子でしたが、政養の養子に迎えられ、明治二年(1869年)二月三日に家督を継ぎました。同年六月二十三日の版籍奉還で湯長谷藩知事となり、明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で職を解かれます。湯長谷藩は湯長谷県となり、まもなく磐前県に合わされました。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万五千石(貞享四年以降の石高)のこの藩はおよそ三百五十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「湯長谷藩」「内藤政養」「内藤政憲」



