佐野常民とは何をした人物か—佐賀の精煉方を率い、三重津で蒸気船を造り、日本赤十字社をつくった人

夕暮れの造船所で鉄製の器物を囲む技術者たちと、外輪蒸気船(イメージイラスト)

佐野常民は、佐賀藩の精煉方を率いて蒸気機関と洋式船を手がけ、のちに日本赤十字社の初代社長になった人です。三重津海軍所で日本初の実用蒸気船が生まれたとき、その主任十一人のひとりでした。幕末の技術者が、そのまま明治の赤十字につながっていきます。

目次

佐賀藩士の五男に生まれ、藩医の養子になりました

佐野常民の肖像写真
佐野常民(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

文政五年十二月二十八日の生まれです。西暦では1823年二月八日にあたりますが、佐賀市の歴史館は和暦の年そのままに「1822年」としています。同じ公的機関のあいだでも割れているので、和暦を添えておくのが確かです。

佐賀郡早津江、いまの佐賀市川副町に、佐賀藩士・下村充贇の五男として生まれ、藩医の佐野常徴の養子になりました。藩校弘道館を出て江戸・大坂・京都に遊学し、緒方洪庵のもとで学んでいます。

そして長崎海軍伝習所へ。国立国会図書館は「新しい技術を習得する」と書き、日本赤十字社佐賀県支部は「航海術や砲術を学び」としています。何を学んだかの書き方も、資料でやや違います。

精煉方の主任になりました

佐賀藩は嘉永五年、西洋の科学を学ぶための精煉方を城下の多布施に置きました。いまでいえば理化学の研究所です。佐野はその主任になります。

佐賀市はこう書いています。「精煉方において中心的な役割を果たすとともに、佐賀藩洋式海軍の充実に尽力した佐野常民」。

同じ精煉方には、からくり人形の名手として知られた技術者も招かれていました。「田中久重とは何をした人物か」で扱っています。

なお精煉方の設置年は、佐賀市・佐賀県・日本船舶海洋工学会がそろって嘉永五年としています。嘉永六年とする資料もありますが、少数です。

三重津海軍所の監督として

三重津海軍所で船を修理する人びと(イメージイラスト)
三重津海軍所のようす(イメージイラスト)

安政五年、佐賀藩は三重津の船屋を広げて御船手稽古所を設け、ここから三重津海軍所へ発展していきます。佐賀県は佐野を「三重津海軍所の監督」と書いています。

有明海に面した干潟の港に、修船場と訓練所と工作場が置かれました。跡地は平成二十五年に国の史跡となり、平成二十七年には世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産に加わっています。

★凌風丸—「佐野が造った」と書くべきか

慶応元年、三重津で凌風丸が完成します。日本で最初に実用になった国産の蒸気船とされる船です。

この船と佐野の関係を、公的機関はそれぞれ違う書き方をしています。

  • 佐賀県は「三重津海軍所の監督となり、日本初の実用蒸気船『凌風丸』を完成させた」と、佐野を主語にしています
  • 佐賀市は、歴史的風致維持向上計画でも歴史館のページでも学習シートでも、人名を主語にしません。「慶応元年に完成させた」「ここでつくられました」と、藩や場所の事業として書いています

どちらが正確なのか。手がかりは一次史料にあります。佐嘉神社が所蔵する凌風丸の絵図に添えられた賛には、鍋島閑叟の年来の計画がようやく成り、佐賀一手で三重津海軍所に蒸気船の製造を命じた、とあり、続けてこう書かれています。

以佐野栄寿左衛門、藤瀬孫太郎…等十一人、為共主任

佐野栄寿左衛門—これが幕末の佐野常民の名です。十一人の共同主任の、その筆頭に名が挙がっている。これが史料に即した位置づけです。

ひとりで造った船ではありません。けれども十一人の先頭に名が残っている。このサイトでは「十一人の主任のひとり」と書くことにします。

幕府の軍艦のボイラーを、佐賀で組みました

佐賀藩は幕府から、幕府初の国産蒸気軍艦千代田形のボイラー製造を頼まれ、三重津で手がけています。

その年は資料で割れていて、佐賀市は文久二年に依頼、日本船舶海洋工学会は文久三年に製造としています。献納の功で褒賞を受けたことは共通しています。

幕府の船の心臓部を、一つの藩が引き受けて造った。幕末の技術がどこに集まっていたかが分かる話です。

パリ万博、そして明治

慶応三年のパリ万博に、佐野は佐賀藩の代表として渡りました。

明治に入ってからの歩みは、海から始まっています。海軍の創設と洋式灯台の建設に関わり、灯台頭をつとめました。明治五年にはウィーン万国博覧会の副総裁に任じられます。その後は大蔵卿、元老院議長、枢密顧問官。明治二十五年には農商務大臣も短期間つとめました。

博愛社から日本赤十字社へ

明治十年の西南戦争のとき、敵味方の区別なく負傷者を救うという考えのもとに、佐野は大給恒らとともに博愛社を立ち上げます。創立の許可が下りたのは五月三日と記録されています。

この博愛社が、明治二十年五月二十日に日本赤十字社と名を改めました。佐野はその初代社長です。

戦う相手も助ける。長崎で航海術を学び、三重津で蒸気船を造った人が、最後にたどり着いた仕事がこれでした。

明治三十五年十二月七日、東京麹町の自宅で死去。墓は青山墓地にあると日本赤十字社佐賀県支部が伝えています。

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訪ねるなら

  • 佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館(佐賀市立/佐賀市川副町大字早津江津四四六の一)。九時から十七時、最終入館は十六時三十分。月曜休館(休日の場合は翌平日)。観覧料は大人五百円、小中高生二百円
  • 三重津海軍所跡(同館のすぐそば)。平成二十五年に国史跡、平成二十七年に世界文化遺産の構成資産。遺構は保存のため土に埋め戻されているので、地上に建物は見えません。館内の展示とあわせて見るのがよいと思います
  • 青山墓地(東京都港区)。墓所とされますが、東京都の著名人一覧では確認できませんでした

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 国立国会図書館「近代日本人の肖像」佐野常民
  • 佐賀市「歴史的風致維持向上計画」、佐賀市立「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」および同館学習シート
  • 佐賀県の三重津海軍所跡・佐野常民紹介資料
  • 日本船舶海洋工学会 造船資料館(凌風丸絵図の賛、三重津海軍所)
  • 日本赤十字社佐賀県支部
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