長尾藩の歩み
慶応四年(1868年)五月、謹慎した「徳川慶喜」の跡を継いだ徳川宗家「徳川家達」は新政府から駿府藩主として存続を認められ、七十万石の領主として駿河・遠江に入封します。この移封に伴い、駿河田中藩四万石の藩主であった「本多正訥」は新政府より安房国への国替えが命じられました。
正訥は軍事的な観点から白浜に近い長尾村滝口の要害の地に長尾陣屋(長尾城)を建設し、藩庁を置くことにしました。そして長尾藩が立藩します。
明治二年(1869年)六月、正訥は「版籍奉還」に伴い藩知事となります。この年の夏、台風によって建設中の長尾陣屋が倒壊しました。長尾への陣屋建設には土地の狭隘さや交通の不便などのから当初より反対論も多かったです。そしてこの陣屋倒壊によって「恩田仰岳」は譴責となり、一気に長尾陣屋反対論が主導権を握りました。
明治三年(1870年)一月、館山城に近い北条村鶴ヶ谷に新たな藩庁「北条陣屋」の建設が進められました。五月には藩知事「本多正訥」が北条陣屋に着任し、十一月には「長尾陣屋」から北条へ藩庁が完全に移転しました。
花房藩/西尾家三万五千石:西尾忠篤 徳川宗家の駿河移封の替地として横須賀藩から転封した西尾氏
菊間藩/水野家五万石:水野忠敬 沼津藩からの移封により立藩
桜井藩(貝淵藩)/松平家一万八千石:松平信敏 徳川宗家の駿河転封による替地として立藩
鶴舞藩/井上家六万石:井上正直 徳川家の駿河・遠江入封に伴い浜松藩から移封の上で立藩
松尾藩(柴山藩)/太田家五万undefined千石:太田資美 西洋稜堡式要塞を築城中に廃藩置県となった松尾藩
小久保藩/田沼家一万一千二百七十石:田沼意尊 徳川宗家の駿河・遠江移封に伴う替地として立藩
藤枝から安房へ、家族ごと海を渡った藩
本多正信の弟から始まる家です
長尾藩の本多家は、徳川家康の謀臣として知られる本多正信の弟、正重から出た系統です。三弥左衛門家と呼ばれます。正重は下総舟戸で一万石を得たものの減封されて旗本に落ち、四代の正永が寺社奉行として舟戸一万五千石で大名に戻りました。六代正矩が上野沼田二万石、そして駿河田中四万石へ。以後およそ百四十年、この家は田中の城主でした。
幕末の当主、十二代の本多正訥は学者大名でした。文久二年(1862年)に新設された学問所奉行、つまり昌平坂学問所の奉行を務めた人です。その人が慶応四年(1868年)七月、安房への国替えを命じられます。徳川家達が駿府七十万石を与えられることになり、駿河と遠江にいた大名が房総へ押し出された、あの玉突きの一つでした。
藩士は、家族ごと海を渡りました
この移封で実際に何が起きたかというと、藩士たちの引っ越しです。館山市立博物館の記録によれば、長尾藩士は明治二年(1869年)の正月から五月ごろにかけて、家族ともども安房へ移りました。経路は二つ。東海道を下って浦賀から船で渡るか、焼津から直接海を渡るかです。
移った先での住まいは一か所にまとまりませんでした。鶴ヶ谷、北条村の新塩場、国分村の萱野、八幡村、正木村。土地の都合で分散して配置されています。何代も駿河に住んでいた武士の一家が、荷をまとめて船に乗り、見たこともない安房の村に割り振られる。藩の移封という言葉の内実は、こういうものでした。
台風で陣屋が倒れ、藩庁が動きました
本文にあるとおり、長尾陣屋は明治二年の夏の台風で建設中に倒壊します。もともと土地が狭く交通も不便だとして反対論の多かった場所でした。藩庁はその後、北条、いまの館山市北条へ移されます。ここに藩主の居宅、藩庁、作業所、藩校、藩士の屋敷が収められました。移転の時期については、明治二年十月とする資料と明治三年十一月とする資料があり、一致していません。
藩校は日知館といいます。田中藩時代の藩校をそのまま引き継いだもので、明治二年九月に白浜村へ置かれ、北条村と北朝夷に分校が設けられました。藩がなくなる二年前に、引っ越し先で学校を立て直していたことになります。
三年で消えた藩と、残った人びと
明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で長尾県となり、同年十一月十三日に木更津県へ、明治六年(1873年)六月十五日に千葉県へと編入されました。藩として存在したのは足かけ三年です。
藩士たちは、藤枝や東京へ戻る者と、安房に残る者とに分かれました。残った人びとは教育や行政の仕事に就いています。館山市立博物館は、長尾藩に関わった人びとの縁者として画家の藤田嗣治と、学者の成瀬仁蔵の名を挙げています。いまも本多家を祀る稲荷社や、藩士たちの共同墓地、記念碑が各所に残っているとされます。三年しかなかった藩の痕跡は、城跡ではなく墓地の形で残りました。
陣屋の跡地はほとんどが耕地になっており、遺構はほぼ残っていません。二代の本多正憲は明治三年十二月に養父正訥の隠居を受けて知藩事となり、明治四年七月に免官、明治十七年(1884年)の華族令で子爵を授けられました。廃藩後は宮中に出仕し、のちの大正天皇にあたる明宮に仕えています。
沼田から田中へ、田中から長尾へ—本多家の百四十年
老中を出した沼田時代と、田中への移封
長尾藩の本多家は、もとは上野の沼田にいた家です。元禄十六年(1703年)に本多正永が沼田に入り、宝永元年(1704年)に老中となって四万石を領しました(沼田藩)。享保十五年(1730年)、正矩の代に駿河の田中へ移り、以後七代・約百三十年にわたって田中藩を治めています。田中藩は下総に一万一千五百石余りの飛び地を持ち、流山郊外の加村台に陣屋を置いていました。この加村陣屋は、明治のはじめに葛飾県・印旛県の県庁として使われています。家格は譜代で、江戸城では雁間に詰める家でした。
郡上一揆で失脚した老中・本多正珍
田中藩主の本多正珍は延享三年(1746年)から老中を務めましたが、美濃の郡上一揆の処理をめぐる不正を問われて免職となりました。同じ郡上一揆では、陸奥石川藩の本多家の流れをくむ本多忠央も改易されています(石川藩)。一つの一揆が、二つの本多家の運命を変えたことになります。
駿府城を家達に渡した最後の藩主
最後の藩主・本多正訥は、元治元年(1864年)に駿府城代となりました。慶応四年(1868年)二月には尾張藩の使者に勤皇の証書を出し、六月十三日には駿府城を、新たに静岡藩主となる徳川家達に引き渡しています。そして自分は、徳川家に田中を明け渡して安房長尾へ移ることになりました。正訥は博学で知られ、『清史逸話』を書いています。明治十八年(1885年)に五十九歳で亡くなりました。
藤枝に残る田中城の建物
藤枝市の田中城下屋敷には、田中城の本丸櫓(二層二階)が移されて残っています。明治四年(1871年)に払い下げられ、平成七年(1995年)にこの地に移されたものです。館山市北条の鶴ヶ谷には、長尾藩の屋敷地の区画がいまも残っています。長尾藩の二代目の知藩事・本多正憲は明治十七年(1884年)に子爵となり、貴族院議員も務めました。
三つの土地を渡った百四十年の終点
長尾藩はわずか三年で消えた藩ですが、本多家の歩みとして見ると、沼田・田中・長尾と三つの土地を渡り歩いた百四十年の旅の終点でした。しかも最後は、自分の城を徳川家に明け渡して房総へ移るという、譜代の家らしい幕引きです。田中城の櫓が藤枝に残り、長尾の屋敷割りが館山に残る。藩は消えても、家臣たちが暮らした跡は二つの土地に分かれて残っています。



