北条藩/水野家1万5千石:水野忠韶 上総国鶴牧藩に移封のため廃藩

北条藩 水野家1万5千石 最後の藩主 水野忠見
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北条藩の歩み

享保十年(1725年)十月、「水野忠定」が信濃国から安房北条に一万二千石で移封され北条藩が立藩されます。享保二十年(1735年)六月、丹波国内にて三千石を加増され、都合一万五千石となりました。

第2代藩主「水野忠見」は奏者番・大番頭を歴任。第3代藩主「水野忠韶」も奏者番・大番頭を経て文化五年(1808年)十一月に若年寄に就任、文政八年(1825年)には城主格となりました。文政十年(1827年)八月、忠韶は上総国鶴牧藩に移封となり北条藩は廃藩となりました。

廃藩のあと—藩は消えても陣屋は生き続けた

最初にはっきりさせておくと、幕末に北条藩は存在しません。文政十年(1827年)に水野家が上総鶴牧藩へ移り、廃藩になっています。水野家の統治はおよそ百年でした。

その前には屋代氏の時代があり、正徳元年(1711年)の万石騒動—年貢の増徴に反発した領民の一揆で家老父子が死罪となり、藩主も失政を咎められて改易されています。北条は二度、藩が消えた土地です。

ところが陣屋のほうは残りました。文久元年(1861年)、近江三上藩の遠藤氏が安房国に五千三百石を領し、旧北条陣屋を役所として使っています。さらに明治元年には駿河田中藩から移ってきた長尾藩の領地となり、明治三年十月には長尾藩の藩庁がここ北条へ移されました。藩は消えても建物は使われ続けたわけです。

幕末の安房は騒がしい土地でした。慶応四年閏四月三日、請西藩主・林忠崇が藩兵七十名と遊撃隊士三十六名を率いて挙兵します。号砲一発とともに自分の真武根陣屋を焼き払っての出陣でした。内房を南下して勝山藩に援兵を強要し、館山にも着陣して十四名を出させています。

板挟みになったのが館山藩でした。藩主の稲葉正巳は若年寄から老中格、そして海軍総裁まで務め、幕府海軍の創設に功のあった人物です。海からは榎本武揚の旧幕府艦隊が館山湾に入り、陸からは請西藩らが迫るなか、全役職を辞して隠退し、家督を譲って新政府に恭順しました。

北条陣屋の跡は千葉県館山市北条の仲町、館山駅から歩いて十分ほどの場所です。遺構は残っておらず、いまは病院や警察署などの官公庁舎が建っています。

北条を出た水野家—上総鶴牧藩の幕末

北条藩の水野家は、徳川家康の母・於大の方の甥、水野忠清の流れをくむ分家です。忠清の孫・忠位が正徳元年(1711)に大名に列し、婿養子の忠定の代に安房北条へ入りました。

文政十年(1827)、若年寄を務めていた三代・忠韶(ただてる)は上総の市原・望陀の二郡に移され、椎津村(いまの千葉県市原市姉崎)に陣屋を構えて、その地を「鶴牧」と名づけました。水野家は城主格の大名だったため、陣屋でありながら「鶴牧城」と称しています。陣屋は正坊山の東麓にあり、敷地はおよそ一万七千坪。跡地はいまの市原市立姉崎小学校になっています。

幕末の藩主・水野忠順(ただより)は学問を好み、藩校・修来館を開きました。修来館では三十年ほどかけて中国の歴史書『史記』の注釈書『史記評林』の校訂を続け、明治二年に刊行された版本は、のちに明治天皇への講義にも使われています。

その鶴牧も戊辰戦争に巻き込まれました。慶応四年(1868)閏四月、旧幕府の脱走兵と新政府軍が戦った五井の戦いでは、鶴牧藩領が戦場となって陣屋の外郭が燃え、藩士五名が旧幕府軍側として戦死しています。北条から移って四十年、学問の藩として知られた小藩の、思いがけない幕末でした。

同じころの日本—ラクスマンの根室来航

北の海の来訪者 北条藩の水野家が置かれていた寛政年間、寛政四年(1792)、ロシアの使節ラクスマンが、漂流民の大黒屋光太夫らを送り届けるため、蝦夷地の根室に来航しました。ラクスマンは日本との通商を求めましたが、幕府は長崎で交渉するための許可証を与えるだけで、通商には応じませんでした。

海防の始まり この出来事をきっかけに、幕府は北の海の守りに目を向けるようになり、江戸湾の警備も見直されます。房総の小藩にとっても、海の向こうから来る外国船への備えは、やがて身近な問題になっていきました。

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