山形県新庄市。最上地方の中心として、戸沢家六万石の城下町が栄えたこの町は、戊辰戦争のさなか、庄内藩の軍勢に攻め込まれ、城も町もほとんどを焼かれています。それが「新庄の戦い」です。
この記事では、新庄の戦いがなぜ起き、どう戦われ、何を残したのかを、進軍図とあわせて解説します。新庄城と戸沢家の歴史、城跡の史跡については、【現地取材】新庄城 ― 戸沢六万石の城と、戊辰の夏に焼け落ちた城で書いていますので、あわせてどうぞ。
新庄の戦いとは?ひとことで言うと
奥羽越列藩同盟から抜けて新政府側に付いた新庄藩を、同盟の中心にいた庄内藩が攻め、二日間の戦いで新庄城を落とし、城下を焼き払った戦いです。
| 日時 | 慶応4年7月13日〜14日(1868年8月30日〜31日) |
|---|---|
| 場所 | 出羽国新庄(現在の山形県新庄市)と、その南の舟形(現在の舟形町) |
| 攻め手 | 庄内藩:一番大隊(松平甚三郎)、二番大隊(酒井玄蕃)など |
| 守り手 | 新庄藩と新政府軍(薩摩・長州・佐賀などの藩兵) |
| 結果 | 庄内藩の勝利。新庄城は開城、城下の大半が焼失。藩主・戸沢正実は秋田へ逃れる |
なぜ新庄が狙われたのか
春には新政府軍の本営だった新庄
話は慶応4年の春にさかのぼります。庄内藩を討つために北上してきた奥羽鎮撫副総督・沢為量の一行は、閏4月、新庄に本営を置きました。新庄藩も新政府の命令に従って兵を出し、閏4月24日の清川口の戦いでは、新政府軍とともに庄内領へ攻め込んでいます。
しかし清川口で新政府軍は敗れ、奥羽の諸藩は奥羽越列藩同盟へとまとまっていきます。米沢藩を中心とする同盟軍が新庄に迫ると、沢為量は閏4月29日に秋田方面へ脱出しました。新庄藩は同盟軍を城下に迎え入れ、庄内藩に清川口の件を詫びて、同盟の一員となります。天童の戦いで天童藩がたどったのと同じ、「新政府の命令に従った小藩が、同盟の側に取り込まれる」流れでした。
7月、新庄藩が再び新政府側へ
夏になると、今度は秋田の久保田藩が新政府側に付き、新政府軍は秋田方面から南へ押し返してきます。7月11日、仙台藩を主力に、米沢・山形・上山・天童の各藩が加わった同盟軍は、金山付近で薩摩・長州などの新政府軍に敗れて崩れました。このとき新庄藩は新政府軍の道案内を務めていたとされ、7月12日には新政府軍が新庄城下に入ります。
同盟の側から見れば、新庄藩は同盟を裏切って敵を引き入れた藩でした。ちょうどこのころ、庄内藩の一番大隊と二番大隊は、白河方面の応援に向かう途中でした。新庄と秋田の寝返りを知った両大隊は進路を変え、新庄へと向かいます。
両軍の顔ぶれと兵力
| 庄内藩(攻め手) | 新庄藩・新政府軍(守り手) | |
|---|---|---|
| 主な指揮官 | 一番大隊:松平甚三郎(家老) 二番大隊:酒井玄蕃(了恒) | 新庄藩主・戸沢正実、新政府軍の諸隊 |
| 兵力 | 一番・二番大隊でおよそ900〜1000名 | 新庄藩兵に、薩摩・長州・佐賀などの藩兵(数では庄内勢を上回ったとされる) |
| 拠点 | 舟形(新庄の南) | 新庄城と城下、舟形の北の高地 |
二番大隊を率いた酒井玄蕃は、このとき26歳。天童の戦いでも先頭に立っていた、のちに「鬼玄蕃」と呼ばれる庄内藩の名将です。数では新政府側が上回っていましたが、庄内藩は豪商・本間家の財力で買いそろえた新式の銃と、よく訓練された兵を持っていました。
戦いの流れ ― 正面で敗れ、迂回で勝った二日間
7月13日:舟形と小国川の戦い
13日、庄内の両大隊は舟形で、待ち構えていた新庄藩兵・新政府軍とぶつかりました。小国川をはさんだ撃ち合いになりましたが、庄内勢はこれを突破し、新政府軍が本営にしていた四ツ屋を奪って兵糧を手に入れています。
7月14日:二手に分かれた新庄城攻め

翌14日、庄内勢は新庄城に向けて二手に分かれました。
- 一番大隊(松平甚三郎):羽州街道を北へ、新庄城に正面から進む
- 二番大隊(酒井玄蕃):西へ大きく回り込み、長者原(舟形町)・角沢(戸沢村)を経て、福田・仁間村方面から城の側面へ
正面の一番大隊は、午前10時ごろ、街道の左右の高地から一斉射撃を受けて死傷者を出し、正午ごろに退却を決めます。正面突破は失敗でした。
一方、西へ回った二番大隊は、新庄藩兵の攻撃を受けながらも前進を続け、仁間村付近で新政府軍と2時間ほど激しく撃ち合いました。新政府側は援軍を送ったものの、薩摩藩兵と長州藩兵の一部は城下へ引き揚げてしまい、やがて新政府軍は崩れて退却を始めます。二番大隊はそのまま城下へなだれ込みました。
開城と城下の炎上
庄内勢が城下に入ったとき、新政府軍の兵はほとんど残っていませんでした。藩主・戸沢正実は城に籠もって討ち死にすることも考えたといいますが、家老の説得を受けて城を開き、新庄藩兵とともに秋田へ逃れました。酒井玄蕃の二番大隊が新庄城に迫ると、大手門は固く閉ざされ、「開城」と書いた紙が貼られていたと伝わります。
城下には火が放たれ、折からの強風で大半が焼け落ちました。新庄藩がのちに新政府へ届け出た被害は、城の建物は隅櫓二つと天満宮を残してすべて焼失、侍屋敷516軒、備えの籾を収めた土蔵14棟などにのぼります。黒煙は遠く庄内からも見えたといいます。戦いは午後5時ごろに終わり、庄内藩はこの戦いで討死9名、負傷33名を出しました。
戦いのあと ― 秋田への進撃と、新庄の奪還
年貢半減で治めた庄内藩
新庄を押さえた庄内藩は、降伏した人々の命を保証し、年貢を半分にするなどの方針を打ち出しました。このため、新庄は庄内勢の管理下に置かれながらも、領内の混乱は抑えられたとされます。新庄を足がかりに、庄内藩は秋田領へと深く攻め込んでいきます(秋田戦争)。
9月、新庄は新政府軍の手に戻る
しかし、ほかの戦線で同盟側が次々と敗れると、庄内藩も兵を引き、9月には降伏します。新庄は9月23日に新政府軍が奪還しました。秋田へ逃れていた戸沢正実は新庄に戻り、戦功を認められて新政府から一万五千石の賞典禄を受けています。
上山藩は新庄城攻めに加わったのか
新庄の戦いを調べると、「上山藩も新庄を攻めたのでは」という話に出会います。たしかに上山藩は同盟の一員として、閏4月に新庄へ北上した同盟軍に加わり、7月11日の金山付近の戦いにも参加しています。ただ、7月14日の新庄城攻めそのものに上山藩兵が加わったことを示す記録は、今回確認できた資料の範囲では見つかりませんでした。新庄城を落としたのは、庄内藩の一番・二番大隊だったと考えるのが自然です。
この戦いが示したもの
新庄藩は、春には新政府軍の本営となり、閏4月には同盟に加わり、7月には再び新政府側へ戻りました。小藩が大きな流れのなかで右へ左へ揺れ、そのたびに周囲から「裏切り者」と見られる。天童藩と同じ構図が、ここでも繰り返されています。そして最後に城と町を焼かれたのは、その小藩の側でした。戦いのあとに新政府から賞典禄を受けたとはいえ、城下を失った新庄の人々にとって、それが慰めになったかどうかはわかりません。
現地を歩く ― 新庄城跡

新庄城の本丸跡はいま最上公園として整備され、本丸には戸沢家の歴代藩主を祀る戸澤神社が鎮座しています。戊辰の戦火で城の建物は失われましたが、表御門跡の石垣が往時の構えをしのばせます。



筆者の感想
新庄城は完全な平城で、大きすぎず小さすぎず、わたしのお気に入りの城跡のひとつです。お堀もきちんと残っていて、雰囲気がとても良いところです。本丸には戸澤神社があり、しっかりと御朱印をいただきました。看板の説明もあり、初代藩主・戸沢政盛公の像も立っています。
▶ この戦いの地を旅するなら
筆者が実際にめぐった旅の記録を、姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で紹介しています。
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場所・アクセス
新庄城跡(最上公園):山形県新庄市堀端町。JR新庄駅から徒歩約15分。本丸跡に戸澤神社、表御門跡の石垣、新庄城絵図の案内板などがあります。
文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)
※進軍図はイラストです


