小栗上野介忠順は、慶応四年閏四月、上州権田村で取り調べもないまま斬られました。なぜ斬られたのかは別の記事で追いました。ここでは、別の問いを立てます。では、誰の命令で、誰が斬ったのでしょうか。
この問いには、答えが出ています。命令系統は総督・参謀・軍監の三層でたどれて、どの層も実名が分かっています。高崎市立中央図書館が令和八年三月に出した『市史のひろば』第七号が、権田村での経過を日付つきで押さえています。

一、総督 ― 岩倉具視の次男と三男
東山道鎮撫総督に任じられたのは岩倉具定、副総督は岩倉具経です。いずれも岩倉具視の子で、具定が次男、具経が三男にあたります。任命は慶応四年正月九日。父が京都で新政府の実務を握り、その子が東山道をのぼる軍の長となりました。
二、参謀 ― 軍を実際に動かした層
総督府を実務で動かしたのは参謀です。慶応四年二月九日に参謀が交代し、乾(のちの板垣)退助と伊地知正治が就いたとされます。前任は宇田淵と前野久米之助でした。小栗が斬られた閏四月の総督府参謀は、この二人だったことになります。
三、軍監 ― 二十二歳と十九歳
権田村に実際に来たのは、さらに下の層でした。原保太郎は丹波園部の出で、このとき二十二歳。岩倉具視の側近にあたる人物です。もう一人の豊永貫一郎は土佐の出で十九歳、もとは陸援隊の隊員で、総督府の御使として動いていました。
四十二歳の勘定奉行を裁いたのは、二十歳前後の二人だったわけです。
残っているのは「捕らえよ」の達だけです
先に、この件のいちばん大事なところを書いておきます。「斬れ」と命じた文書は、見つかっていません。
残っているのは四月二十二日の追捕令です。東山道総督府が高崎・安中・吉井の三藩主、すなわち松平右京亮・板倉主計頭・吉井鉄丸に宛てて出したもので、理由は「自宅に砲台を据え城郭を構え、前将軍徳川慶喜が恭順しているのに反して不埒」というものでした。捕らえよ、という達です。
しかも三藩は現地を検分したうえで、反意も戦備もないと判断し、赦免を願い出たと伝わります。それを押し切って斬首に進んだのが軍監でした。斬首は「罪状明白なので天誅を加える」という理由で行われています。判決文も、取り調べの記録も存在しません。
ただし、現地の暴走で終わった話でもありません。小栗父子の首は、館林城に本陣を置いていた総督・岩倉具定のもとへ送られ、首実検を受けています。館林市は、首がそのあと善導寺に預けられ法輪寺に埋葬されたと説明しています。総督府はあとから追認したことになります。
京都の新政府が斬れと指示した文書は、いまのところ出てきていません。高崎市が「何の取り調べもなく」と書き、墓の解説が「『反逆の企て』があるとされ」とカギカッコで括っているのは、そういうことなのでしょう。罪状書は失われたのではなく、最初から作られなかったと読めます。
権田村で起きたこと
『市史のひろば』第七号によりますと、経過はこうです。閏四月一日に権田村で談判があり、四日に原保太郎と豊永貫一郎が到着します。捕縛の日は、高崎市の文化財情報は閏四月五日、『市史のひろば』第七号は四日としており、ここは資料によって一日ずれます。六日、三ノ倉村で小栗と従者三人が斬られました。翌七日には、子息の又一と従者四人が牢屋の後ろで斬られています。従者は合わせて七人です。
名主の佐藤藤七をはじめ、村の人びとが首を取り返して葬ったのは、このあとのことでした。
斬ったのは誰か ― ここは定まっていません
命令系統は分かるのに、刀を振り下ろしたのが誰かは決まっていません。原保太郎はのちに、自分が斬ったと語ったと伝えられます。いっぽうで、安中藩の徒目付・浅田五郎作が実行したという説もあります。どちらも一次の史料で確かめられたわけではないため、ここでは両方を並べておきます。
斬った側は、その後どうなったか
原保太郎は明治になって山口県知事、福島県知事などを務めました。豊永貫一郎は台湾で警部になっています。二人は官の側で明治を生きたことになります。いっぽうの小栗は「逆賊」とされ、名誉が回復されるまでに長い時間がかかりました。その経過は埋蔵金伝説や再評価の記事で追っています。
首がそのあとどこへ運ばれたかは館林城での首実検、達を受けて兵を出した三藩の事情は斬らずに済ませたかった三藩にまとめました。
この原保太郎がそのあとどう生きたかは、原保太郎とは何をした人物かにまとめました。二十二歳で小栗を斬った男は、昭和十一年まで生きています。
二〇二七年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』は、この小栗忠順を主人公にします。処刑の場面が描かれるとき、刀を持っていたのは誰だったのか。少なくとも、命じた側の名前は分かっています。
参考資料
高崎市立中央図書館『市史のひろば』第七号(令和八年三月)、『柴田日記』(高崎市、平成二十八年)、『小栗日記』(群馬県文化事業振興会『群馬県史料集』第七巻、昭和四十七年)。首実検と埋葬の経過は館林市の公開資料、「何の取り調べもなく」の表現は高崎市の文化財情報によります。東山道総督府の参謀の交代については国立国会図書館レファレンス協同データベースの回答を参照しました。処刑の実行者については諸説があり、断定を避けています。

