館林城は群馬県館林市城町にあった平城です。
築城時期は不明だが戦国時代初期(室町時代)に「赤井照光」により築城されたという伝記があります。
戦国時代に入ると上杉氏・北条氏との間で激しい戦いが繰り広げられ、最終的には北条氏の持ち城となりました。天正十八年(1590年)、豊臣秀吉が北条征伐に乗り出すと館林城は秀吉の軍勢に囲まれ開城・降伏しました。

北条氏滅亡後は関東に徳川家康の支配する地となり、家康の命を受けて「榊原康政」が十万石にて入封します。康政は中世城郭を近世城郭へと改修し城下町の整備にも務めました。

江戸時代に入ると城主が次々と変わり、松平家、館林徳川家、松平家、太田氏、松平家、井上氏と続き、最後は弘化二年(1845年)に出羽山形から「秋元志朝」が六万石で入封しました。

元治元年(1864年)、秋元礼朝が城主になると、礼朝は戊辰戦争の際に新政府軍に加担し、関東・東北方面の戦争に藩兵を派遣しました。明治に入り廃藩置県により館林藩は廃藩して館林県となりました。現在、城跡には土塁の一部が残り、三の丸の土橋門が復元されています。
長州と縁続きだったために、藩主が隠居させられました
館林城に最後に入ったのは秋元家です。館林市第一資料館の説明によれば、秋元志朝に出羽山形から館林への移封が命じられたのが弘化二年十一月で、実際に入城したのは翌弘化三年五月でした。天保七年に館林藩主になった井上正春はその前の代で、弘化二年に遠江浜松へ移っています。
この志朝が、長州藩の毛利家と縁戚でした。そのため水戸藩とならんで関東の尊皇攘夷派の急先鋒とみなされ、元治元年七月の禁門の変で長州が朝敵になると、志朝は強制隠居を命じられます。同年十月二十七日、養嗣子の礼朝に家督が移りました。藩の立場が、縁続きという一点でひっくり返ったわけです。
二万両と大砲二門で、謹慎を解いてもらいました
館林史談会の講座資料によると、戊辰戦争での館林藩の動きはこうです。慶応四年三月九日に東山道鎮撫総督への謁見を願い出たものの、館林城で謹慎を命じられました。三月十五日に金二万両と大砲二門を総督府に献納し、三月二十九日に謹慎を解かれて出兵を命じられます。
四月三日に下総・下野方面へ、五月四日に白河から二本松・会津若松方面へ、八月八日には相馬・旗巻峠方面へ。動員は合わせて千人あまりで、戦死者は三十九名でした。明治二年九月に「招魂祠」が建てられ、賞典一万石のうち八千石が軍功者に配られています。なお派兵の起点について、館林から順に出たとする史談会資料と、飛び地の河内から兵を出したとするWikipediaの記述が食い違っています。
最後の藩主は秋元礼朝で、明治四年七月の廃藩置県で職を離れ、同年九月に隠居しました。跡を継いだのは戸田忠至の次男・秋元興朝で、明治四年九月九日に礼朝の養子となり、二十三日に家督を相続。華族令で子爵を授けられたのはこの興朝です。ただしこの授爵の日付と爵位はWikipediaにしか記載を見つけられませんでした。
城の建物は、明治七年の火事で失われました
館林城の建物は、廃城令で取り壊されたというより、明治七年の火災でその大半を失っています。三の丸を守る通用口だった土橋門もこの火事で焼けました。大正七年にいったん復元され、昭和五十八年に近世の絵図と発掘調査をもとに、もう一度復元されたのが現在の姿です。
土塁は本丸・三の丸・稲荷郭の一部に残ります。二の丸跡は館林市役所、三の丸跡は館林市文化会館になっていて、市役所の住所が「城町一番一号」なのはそのためです。
混同されやすいのですが、名勝のつつじで知られるつつじが岡公園は城跡ではありません。館林城は城沼に突き出た台地に築かれ、城沼が外堀の役目を果たしました。躑躅ヶ岡はその城沼の南岸、つまり沼をはさんだ向こう側にあたります。
狐が尾を曳いて、城の縄張りを教えたといいます
館林城の別名は「尾曳城」です。尾曳稲荷神社に伝わる話では、大袋城主の赤井照光が年賀に向かう途中、童子たちに捕らえられていた子狐を助けました。その夜に老翁が現れて礼を述べ、七夕の夜、老狐が尾を曳いて城郭の縄張りを先導し、自らを「稲荷の神使 新左衛門」と名乗ったといいます。照光は城を尾曳城と号し、城内に稲荷郭を設けて神社を創建しました。
年次は資料で割れています。神社は創建を天文元年とし、別の資料は江戸時代の『館林記』を引いて弘治二年の竣工とします。築城の時期そのものに諸説あるので、伝承として両方を並べておきます。
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館林城の構造と、秋元家の幕末
狐が縄張りをした城
館林城が確かな記録に現れるのは、文明三年(1471年)に上杉軍が赤井氏の「立林城」を攻め落としたときです。江戸時代の『館林記』には、赤井照光が助けた子狐の親が、尾を引いて城の縄張りを教えたという伝説が残ります。これが「尾曳城」という別名の由来です。
城沼を外堀にした城
館林城は、東の城沼を外堀にして、低い台地の上に本丸・二の丸・三の丸・八幡郭・南郭を置いた城です。その周りを稲荷郭・外郭・惣郭が囲み、西に城下町が広がっていました。三の丸の通用門は、黒い鉄板を張っていたことから「黒門」とも呼ばれた土橋門です。武士の正門は三の丸北面の千貫門でした。
将軍綱吉の城
寛文元年(1661年)、のちの五代将軍・徳川綱吉が二十五万石で館林城主となりました。綱吉が将軍になると、子の徳松が城を継ぎます。しかし天和三年(1683年)に徳松が幼くして亡くなり、城はいったん廃されました。宝永四年(1707年)に越智松平家の清武が入って、城を建て直しています。
長州と結んだ藩
弘化二年(1845年)に入った秋元志朝は、長州藩と縁戚関係にありました。館林藩は、水戸藩とともに関東の尊王攘夷派を率いる存在となります。藩校の求道館を開き、雄略天皇陵の修理も手がけました。しかし禁門の変のあと、長州とのつながりから幕府の疑いを受け、志朝は元治元年に隠居しています。
この時期の館林藩士として知られるのが、のちに『名将言行録』を著した岡谷繁実です。繁実は無断で京都へ上って攘夷を訴え、長州征伐を避けるために長州へ赴いて周旋もしています。戊辰戦争では、館林藩は新政府軍として上越国境や奥州などへ兵を出しました。
城跡のいま
明治七年(1874年)の火災で、城の建物の大部分が焼けました。本丸と南郭の跡は「館林城ゆめひろば」となっています。二の丸の跡には旧上毛モスリン事務所が建っています。昭和五十八年(1983年)には土橋門が復元されました。
場所・アクセス・地図
群馬県館林市城町



