| 佐伯又三郎 | |||
| 職名 | 副長助勤 | ||
| 出身 | 長州 | ||
| 終焉場所 | 京都 嶋原 | ||
| 終焉方法 | 殺害 | ||
佐伯又三郎をもっと深く—壬生浪士組の初期に消えた副長助勤
新選組がまだ「壬生浪士組」と名乗っていたころ、幹部の一人でありながら、わずか数か月で命を落とした隊士がいます。佐伯又三郎です。
長州出身の剣士
長州の出身とされます。旗本・多門鎗次郎正文の門人で、田宮流の剣術を学んだといわれます。
壬生浪士組の副長助勤
文久三年(1863)、京都で結成されたばかりの壬生浪士組に加わりました。斎藤一とほぼ同じころの参加とされます。隊では幹部の副長助勤をつとめました。
嶋原での死
文久三年八月十日、佐伯は京都の嶋原で何者かに斬られて亡くなりました。誰が、なぜ斬ったのかははっきりしません。長州の出身であったことから間者と疑われたとする説や、芹沢鴨の一派との揉めごとによるとする説などが伝わっています。
八月十八日の政変で長州が京都から追われる、わずか八日前のことでした。この年の壬生浪士組では、九月に芹沢鴨が暗殺され、長州の間者とされた隊士も次々に斬られていきます。
佐伯又三郎の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 生年不詳 | 長州の出身とされる |
| 若いころ | 旗本・多門鎗次郎正文、窪田清音の流れをくむ田宮流の剣術を学んだとされる |
| 安政六年(1859)四月六日 | 吉田松陰の兵学入門の起請文に「江戸 佐伯又三郎」の名が見える |
| 文久三年(1863)春 | 京都に残った壬生浪士組に加わる。のちに副長助勤 |
| 文久三年 | 京都守護職・松平容保の前で、平山五郎と剣術の試合を見せる |
| 文久三年八月十日 | 京都の嶋原で斬られて亡くなる |
| 文久三年八月十八日 | 八月十八日の政変で、長州藩が京都から追われる |
佐伯又三郎を読み解く
吉田松陰の門人帳に残る名
佐伯の名は、吉田松陰に兵学を学ぶために出した起請文(入門の誓約書)に「江戸 佐伯又三郎」として出てきます。安政六年四月、松陰が安政の大獄で江戸へ送られる少し前のことです。これが新選組の佐伯と同じ人物なら、佐伯は松陰に学んだ長州系の人間でありながら、長州と対立していく壬生浪士組の幹部になったことになります。
容保の前で平山と立ち合う
会津藩士・本多四郎の『世話集聞記』には、松平容保が壬生浪士組の腕前を見た席で、佐伯が平山五郎と剣術の試合をしたことが書かれています。会津藩の前で腕前を示す場に選ばれたのですから、佐伯は隊の中でも名の通った剣士だったといえます。相手の平山は芹沢鴨の一派の人でした。
政変の八日前の死
佐伯が嶋原で斬られたのは文久三年八月十日、長州が京都から追われる八月十八日の政変の八日前です。長州とのつながりを疑われて斬られたのか、芹沢鴨の一派との揉めごとだったのか、説は分かれています。どちらにしても、この年の壬生浪士組では、長州とのつながりを持つ者が生き残るのは難しいことでした。九月には芹沢が暗殺され、長州の間者とされた御倉伊勢武らも斬られています。一連の流れは芹沢鴨と水戸派の最期にまとめています。
はっきりしないこと
起請文の佐伯と新選組の佐伯が同じ人物かどうかは、確かめられていません。誰が佐伯を斬ったのかも分かっていません。
佐伯又三郎をさらに掘り下げる
どちらの派にも属さない幹部
文久三年の壬生浪士組の副長助勤には、沖田総司・永倉新八・斎藤一ら近藤勇の試衛館の人々と、平山五郎・野口健司・平間重助ら芹沢鴨の水戸派の人々が並んでいました。幹部の顔ぶれは、そのまま二つの派の勢力を映していたのです。
そのなかで佐伯は、試衛館の仲間でも水戸の同志でもありませんでした。どちらの派にも属さない者が幹部に加わっていたことは、結成まもない壬生浪士組が、まだ仲間うちだけで固まりきっていなかったことを示しています。しかし同時に、後ろ盾となる仲間を持たない幹部は、隊の中の争いで真っ先に居場所を失いやすい立場でもありました。佐伯の死が「誰の仕業か分からない」まま残されているのも、どちらの派にとっても、彼が「内側の人間」ではなかったからかもしれません。
佐々木愛次郎の死とのつながりを語る話
佐伯の名は、「美男五人衆」の一人・佐々木愛次郎の悲しい話とともに語られることがあります。愛次郎には恋仲の娘がいましたが、その娘に目をつけた者が愛次郎を殺し、娘を襲ったという話で、その張本人が佐伯だったとされるのです。そして佐伯自身も、ほどなく斬られたと語られます。
この話は昭和になってからの聞き書きによって広まったもので、どこまでが本当なのかは分かりません。ただ、佐伯が斬られた理由を「長州の間者だったから」とする説と並んで、こうした私的な恨みや揉めごとの話が伝わっていることは、文久三年の壬生浪士組がまだ規律の定まらない荒々しい集まりだったことを物語っています。
嶋原と壬生浪士組
佐伯が斬られた嶋原は、江戸時代の京都を代表する花街で、壬生の屯所からは歩いてすぐの距離にありました。壬生浪士組の隊士たちはよく嶋原に出入りしており、芹沢鴨が暗殺された九月の夜も、その前に嶋原の角屋で宴が開かれていたと伝わります。いまも残る角屋の建物には、新選組の隊士がつけたといわれる刀傷が見られます。
屯所のすぐそばにある遊びの場が、同時に斬り合いや暗殺の舞台にもなっていた—佐伯の死は、文久三年の壬生浪士組のそうした日常の危うさを伝えています。芹沢暗殺の夜の流れは芹沢鴨と水戸派の最期で扱っています。
政変の八日前という時期
佐伯が死んだ八月十日は、長州が京都を追われる八月十八日の政変の直前でした。このころの京都では、長州とそれに近い志士たちの動きがとりわけ激しく、会津藩や薩摩藩はひそかに巻き返しの準備を進めていました。長州出身で、松陰の門人帳に名があるかもしれない人物が、その直前に斬られている。時期の重なりだけで理由を決めることはできませんが、「間者説」が生まれやすい状況だったことは確かです。
佐伯又三郎と関わりの深い人たち
ゆかりの地
- 嶋原(京都市下京区):佐伯が斬られた花街。揚屋の角屋がいまも残ります。
- 壬生・八木邸(京都市中京区壬生)—壬生浪士組の屯所。
隊内の切腹・粛清の一覧は新選組の切腹・粛清一覧にまとめています。
参考にした資料:吉田松陰の兵学入門起請文、本多四郎『世話集聞記』、Wikipedia「佐伯又三郎」。
文久三年に芹沢鴨の一派と、長州の間者とされた隊士たちがどう消えていったかは、芹沢鴨と水戸派の最期—文久三年、壬生浪士組から消えた人々に年表でまとめています。
新選組をもっと知る本
佐伯又三郎の死については、斬られた理由も日付も定まっていません。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、こうした未解決の話をそのまま残してくれている本です。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

