| 立川主税 | |||
| 職名 | 会津新撰組機械方頭取下役 | ||
| 出身 | 筑前宗像 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
立川主税をもっと深く—土方の最期を見届け、僧になった人
箱館で土方歳三の戦死に立ち会い、その思い出の品を日野へ届けた隊士です。明治になってからは僧侶として生きました。
筑前の漁村から
天保十一年ごろ、筑前国宗像郡鐘崎浦(いまの福岡県宗像市)の漁村に、町人の子として生まれました。いつ入隊したかは分かっていませんが、近藤勇のそば近くに仕えていたとされます。
土方の戦死に立ち会う
明治二年五月、箱館で土方歳三が戦死したとき、立川はその場に立ち会ったといわれます。そして安富才輔から、土方家に宛てた手紙を託されました。
日野の佐藤彦五郎を訪ねる
降伏後に捕らえられ、明治二年九月に青森、十一月に東京の兵部省へ送られます。赦されたのち、土方をしのぶ歌集や自分の日記を携えて、日野の佐藤彦五郎を訪ねました。この日記は『立川主税戦争日記』として伝わっています。
僧・巨海として
その後は仏門に入り、「巨海」と名乗りました。明治八年に西方寺、明治十八年に山梨の地蔵院の住職を務め、明治三十六年一月二十二日に亡くなりました。地蔵院に残る墓石には「富山二十三世獨龍巨海和尚」と刻まれており、片目にちなむとされる「独眼巨海」の呼び名は「獨龍」の読み違いから広まった可能性があります。墓は娘の春子が大正十三年に建てたものです。
立川主税の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保十一年(1840)ごろ | 筑前国宗像郡鐘崎浦の漁村に、町人喜六の子として生まれる(天保六年説もある) |
| 入隊の時期は不明(宗像市は慶応三年ごろ江戸で入隊とする) | 新選組に加わり、近藤勇のそば近くに仕えたとされる |
| 慶応四年(1868)三月〜四月 | 甲州勝沼の戦いのあと、下総流山で近藤勇が出頭する |
| 慶応四年 | 斎藤一・安富才輔らと会津へ向かう。のちに大砲方下役、会津新撰組機械方頭取下役 |
| 明治元年〜二年 | 蝦夷地へ渡り、箱館戦争を戦う |
| 明治二年(1869)五月 | 箱館で土方歳三の戦死に立ち会ったとされる |
| 明治二年九月・十一月 | 青森へ、ついで東京の兵部省へ送られる |
| 明治八年(1875) | 山梨県都留郡桂村の西方寺の十二代住職になる |
| 明治十八年(1885) | 東山梨郡春日居村の地蔵院の二十三代住職になる |
| 明治三十六年(1903)一月二十二日 | 死去 |
立川主税を読み解く
漁村の町人から新選組へ
新選組には、武士の家に生まれた者だけでなく、農民や町人の出身者も多く加わっていました。近藤勇も土方歳三も、もとは多摩の農家の出です。それでも、九州の漁村の町人の子が、どのような縁で江戸や京都の新選組にたどり着いたのかは分かっていません。立川の入隊の経緯は、今も謎のままです。
土方の死を伝えた人
箱館で土方歳三が戦死したあと、その最期を土方の家族に伝えることは、生き残った隊士たちにとって大事な務めでした。立川は安富才輔から土方家への手紙を託され、赦されたあとに日野の佐藤彦五郎を訪ねています。土方の最期の様子が今に伝わっているのは、立川のように話を運んだ人たちがいたからです。安富の手紙については安富才輔のページでも触れています。
日記という一次史料
立川が残した日記は『立川主税戦争日記』として伝わり、会津から箱館までの戦いを隊士自身の目で記した記録として、研究に使われています。新選組の戦いを内側から書いた記録は、島田魁や中島登などごく少数の隊士のものに限られます。僧になった立川が終生土方の菩提を弔ったという話とあわせて、この日記は立川がどれほど土方を慕っていたかをよく示しています。
甲斐の寺の住職に
住職を務めた西方寺と地蔵院は、どちらも甲斐国、いまの山梨県にあります。新選組は慶応四年三月、甲陽鎮撫隊として甲州へ向かい、勝沼で敗れました。立川がなぜ甲斐の寺に入ったのかは分かっていませんが、新選組の足跡が残る土地で後半生を送ったことになります。法名の「独眼巨海」からは、戦いで片目を失っていたとも考えられます。
はっきりしないこと
生年には天保十一年と六年の二説があり、そのため亡くなったときの年齢も六十四歳と六十九歳の二説があります。入隊の時期も分かっていません。
立川主税をさらに掘り下げる
海女の里・鐘崎から
立川の生まれた筑前の鐘崎は、玄界灘に面した漁村で、全国各地へ出かけて漁をした海女の発祥の地の一つとして知られています。海とともに暮らす町人の家から、京都の新選組へ、そして箱館の戦場へ。立川の歩いた道のりは、新選組の隊士の中でもとりわけ長いものでした。
新選組は関東や東北の出の隊士が多く、九州の出身者はわずかです。しかも武士ではなく漁村の町人の子です。どんな縁で新選組に入ったのかは分かりませんが、身分にかかわらず腕と志のある者を受け入れた新選組の性格が、立川の経歴にはよく表れています。
土方の最期を伝えた人たち
土方歳三の最期を日野の人々に伝えた人は一人ではありません。よく知られているのは、土方の小姓だった市村鉄之助です。市村は箱館の戦いのさなか、土方の命で写真と遺髪を託されて箱館を脱け出し、日野の佐藤彦五郎のもとへ届けました。ただしこれは、土方が亡くなる前に託されたものです。
これに対して立川は、土方の戦死そのものに立ち会ったとされ、降伏と取り調べを経て赦されたあとに日野を訪ねています。安富才輔が書いた土方家あての手紙も、立川の手で届けられました。土方がどのように死んだかを、その場にいた者の口から伝えたという点で、立川の訪問は日野の人々にとって大きな意味を持っていたはずです。
| 隊士 | 日野へ届けたもの | いつ託されたか |
|---|---|---|
| 市村鉄之助 | 土方の写真・遺髪 | 土方の戦死の前 |
| 立川主税 | 安富才輔の手紙、自分の日記、土方をしのぶ歌 | 土方の戦死の後、赦されてから |
勝沼に近い寺で
立川が明治十八年から住職を務めた地蔵院のある春日居村は、いまの山梨県笛吹市にあたります。慶応四年三月、近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊が新政府軍に敗れた勝沼は、そこから十キロほどしか離れていません。立川がこの戦いに加わっていたかどうかは確かめられませんが、新選組が江戸へ下ってはじめて本格的に敗れた土地のすぐ近くで、立川は後半生を送ったことになります。
京都、会津、箱館と戦って多くの仲間を失った人が、僧として死者を弔う道を選んだ。その寺が、かつて隊の敗れた甲州にあったことは、偶然であったとしても深く心に残る事実です。勝沼の戦いは近藤勇、最後の百日で扱っています。
立川主税と関わりの深い人たち
立川主税のゆかりの地
- 鐘崎(福岡県宗像市)—生まれ故郷の漁村。
- 五稜郭・一本木関門のあたり(函館市)—土方の最期の地。
- 日野宿本陣(東京都日野市)—佐藤彦五郎の屋敷。
参考にした資料:『立川主税戦争日記』、安富才輔の土方家宛て書簡。
手紙が届くまでの三年
安富才助から土方歳三の最期を伝える手紙を託されたものの、立川はすぐには日野へ行けませんでした。五稜郭を出られず湯の川で投降し、秋田藩の預かり、青森、東京と送られ、福岡藩の預かりとして禁錮の身になります。日野の土方家を訪ねることができたのは明治五年ごろ、託されてから三年ほど後のことでした。自分で書いた日記を携えて、最期の様子を語ったと伝わります。
出身は筑前の漁村・鐘崎、いまの福岡県宗像市です。町人の子として生まれた人が、京都の新選組を経て箱館まで行き、山梨の寺の住職として生涯を終えたことになります。宗像市も郷土の人物としてこの人を紹介しています。
新選組をもっと知る本
箱館まで従った立川のような隊士の足取りは、京都中心の回顧録では追えません。子母澤寛『新選組始末記』で隊の全体を押さえ、永倉新八『新撰組顛末記』で京都の日々を補うとよいと思います。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:相馬主計(函館新撰組隊長)
次の隊士 ▶:谷万太郎(槍術師範)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

