電流丸【佐賀藩 クリッパー級コルベット船 幕末軍艦】

電流丸
藩名 佐賀藩
藩主 鍋島直正(閑叟)
船種 クリッパー級コルベット船
機関 蒸気内車
備砲 21門
材質 木骨鉄皮
馬力 100馬力
写真 絵図
電流丸のイメージイラスト
電流丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(クリッパー級コルベット船・蒸気内車)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

安政三年(1856年)にオランダ・ロッテルダムで竣工され、原名は「ナガサキ」。

安政五年十月(1858年)に佐賀藩が10万ドルで購入し、藩の港であった三重津海軍所で運用されました。同海軍所で「電流丸」の蒸気罐製造の製作場が設けられ「田中久重」らがその担当者になったと記録されています。

明治元年(慶応四年)三月二十六日に大阪天保山沖で日本初の観艦式が行われ、電流丸は旗艦として参加しました。明治四年(1871年)に明治政府への献納の申し出があったが老朽艦のため大砲のみ受け渡して、同年六月に伊万里で売却解体されました。

目次

佐賀藩の蒸気軍艦「電流丸」

電流丸は、幕末に西洋技術の導入で先頭を走った佐賀藩(肥前藩)が保有した蒸気軍艦です。佐賀藩は、長崎警備を担った経験から早くから海防と洋式軍備の必要性を痛感し、反射炉による大砲鋳造やアームストロング砲の国産化に挑むなど、諸藩のなかでも屈指の近代化を進めていました。

佐賀藩の海軍力を支えた一隻

電流丸は、そうした佐賀藩の海軍力を象徴する軍艦であり、藩が育てた洋式技術と人材の裏付けとなる存在でした。戊辰戦争において佐賀藩が新政府側の有力な戦力として重んじられた背景には、電流丸のような近代的な艦船と、それを運用できる人材の蓄積があったのです。

電流丸をもっと深く—鍋島直正が娘に「飛び立つように嬉しい」と書いた船

佐賀藩がオランダに新造発注した蒸気軍艦です。中古を買ったのではありません。注文して造らせました。オランダでの船名は「NAGASAKI(長崎)」—日本に渡ることを前提に、その名で進水しています。

建造 オランダ(新造発注)
旧船名 NAGASAKI
竣工 1856年説と1858年説あり(諸説あり)
長崎入港 安政五年(1858年)十月九日/十一月六日受取完了
購入価格 10万ドル(7万両)
船型 木造スクリュー蒸気船・三檣バーク帆装
排水量 約800トン/100馬力/6ノット
解体 明治四年(1871年)六月、伊万里で売却

「飛び立つように嬉しかったです」

藩主・鍋島直正は、この船が長崎に着いたことを愛娘の貢姫への手紙に書いています。「この度、父が注文した蒸気船が届き、それはそれは飛び立つように嬉しかったです」。

三十五万七千石の外様大名が、七万両を投じて蒸気軍艦を注文します。その船が届いたときの喜びが、娘への私信という形で残っています。幕末の艦船史のなかでは珍しい種類の記録です。

なぜ佐賀藩だったのか

佐賀藩は長崎警備を福岡藩と隔年交代で担っていました。文化五年のフェートン号事件で警備の失態を問われた記憶が、この藩の海防意識をつくっています。

嘉永三年には佐賀城下の築地に日本初の反射炉を築き、鉄製大砲の鋳造に成功しました。そして電流丸を受け取った安政五年、藩は三重津海軍所を開いています。船を買う年に、船を直す場所も用意していました。

三重津の乾船渠は国内現存最古とされ、現在は「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されています。電流丸は、その施設で整備された艦として記録に名前が残る船です。

日本最初の観艦式で、先頭にいた

慶応四年三月二十六日(1868年4月18日)、大阪の天保山沖で日本最初の観艦式が行われました。当時の呼称は「軍艦叡覧」です。

集まったのは電流丸(肥前)、万里丸(肥後)、千歳丸(久留米)、三邦丸(薩摩)、華陽丸(長州)、万年丸(安芸)と、フランス艦デュプレクス。複数の資料が、電流丸をこのときの旗艦としています。佐賀藩士・石井忠亮が座乗して総指揮をとったとされます。

ただし参加隻数や座乗者については資料間で食い違いがあり、防衛研究所の研究論文は艦名も隻数も記していません。「旗艦だったと伝えられる」までが、いま言える範囲です。なお明治天皇は艦上ではなく、天保山の陸上から観覧しています。

箱館では戦っていない

混同されやすいので書いておくと、電流丸は箱館戦争に出ていません。箱館湾海戦に参加した官軍艦は甲鉄・朝陽丸・春日丸・陽春丸・延年丸・丁卯丸の六隻で、電流丸は含まれません。

明治二年五月、二個小隊を乗せて大阪へ回航したのが記録に残る任務です。明治三年には普仏戦争の中立維持のため、龍驤・延年丸とともに中牟田倉之助の指揮下で長崎港の警備に就きました。

そして明治四年、老朽を理由に兵部省は砲だけを受け取り、船体は伊万里で売られて解かれました。直正が「飛び立つように嬉しい」と書いてから、十三年です。

電流丸を船の型と持ち主から読む

電流丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「クリッパー級コルベット船」。速さを追い求めた快速帆船「クリッパー」の帆装を持つフリゲートより一回り小さいコルベットです(帆の張り方・軍艦の格)。木の骨組みに鉄板を張った船体でした。

当サイトで紹介している佐賀藩の船は、この電流丸を含めて12隻あり、そのうち帆船は2隻です。同じ佐賀藩の船には、延年丸(バーク船)、凌風丸(輸送船)、孟春丸(スクーナー級砲艦)、飛雲丸(スクーナー)、日進丸(バーク級巡洋艦)、晨風丸(カッター級輸送船)、神効丸(輸送船)、秋芳丸(輸送船)などがあります。

持ち主の佐賀藩の幕末をふり返ると、洋式化の先進藩。戊辰戦争では新政府軍としてアームストロング砲で活躍。電流丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の佐賀藩—「肥前の妖怪」鍋島直正

藩主・鍋島直正

電流丸を持った佐賀藩の藩主・鍋島直正(閑叟)は、十七歳で藩主となって財政を立て直し、西洋の技術を積極的に取り入れた名君として知られます。反射炉で鉄製の大砲をつくり、蒸気船を買い入れ、種痘をいち早く広めて藩の子どもたちに受けさせました。

慎重な政治姿勢

一方で直正は、幕末の政局では最後まで態度をはっきりさせず、「肥前の妖怪」とも呼ばれました。強大な軍事力を持ちながら、どちらにつくかを慎重に見極めていたのです。佐賀藩が新政府側として戊辰戦争に兵を出すのは、鳥羽伏見の戦いのあとのことでした。

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佐賀藩の海軍を支えた人物については「佐野常民とは何をした人物か」「田中久重とは何をした人物か」をあわせてどうぞ。

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