飛雲丸【佐賀藩 スクーナー 幕末軍艦】

飛雲丸
藩名 佐賀藩
藩主 鍋島直正(閑叟)
船種 スクーナー
機関 帆走
備砲 0門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 絵図
飛雲丸のイメージイラスト
飛雲丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(スクーナー・帆走)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

1857年4月10日、佐賀藩がオランダから初めて購入した洋式船であり、12日には引き取り、26日には勤務心得を発令する等非常に張り切っていました。木造の洋式帆船で、全長21.8m、船幅5.5m、排水量は不明です。一時期は「佐野常民」が艦長を務めていたようです。

佐賀藩が最初に買った洋式船です

安政四年、佐賀藩がオランダから買った最初の洋式船が、この飛雲丸でした。当ページによれば四月十日に購入、十二日に引き取り、二十六日には勤務の心得を出しています。木造のスクーナー帆船で、全長二十一・八メートル、船幅五・五メートル。ただしこの日付と寸法については、外部の資料では確認できません。原名も値段も分かっていません。

船将は、のちに日本赤十字社をつくった人です

この船の船将、いまでいう艦長を務めたのが佐野常民です。安政四年のことでした。佐野は文政五年の生まれで、嘉永六年に佐賀藩の精煉方頭人となり、安政二年には長崎海軍伝習所の第一期生として入っています。翌安政五年には三重津海軍所の監督となり、慶応元年には国産ではじめて実用になった蒸気船、凌風丸の完成に関わりました。そして明治十年、西南戦争に際して博愛社の設立許可を取り、明治二十年にこれを日本赤十字社と改めて初代社長となります。明治二十五年には農商務大臣。飛雲丸の船将だったのは、その最初のころの仕事でした。

この船を手本に、次の船を造りました

翌安政五年、佐賀藩はこの飛雲丸を参考にして晨風丸を造っています。買った船を見て造る、という順序です。オランダから買った帆船一隻が、この藩の海軍の出発点になりました。

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この船が通った職場が、世界遺産になっています

飛雲丸が動いていた場所は、佐賀藩の三重津海軍所です。早津江川の右岸に置かれた藩の海軍学校で、演習場と造船所が整えられ、長崎海軍伝習所で学んだ者が操船術と航海術を教えました。

始まりは安政五年二月、三重津に御船手稽古所を設けたことです。ここが単なる伝習所で終わらなかったのは、蒸気船そのものを造ろうとしたからでした。万延二年七月には汽缶、つまりボイラーの製造所が建てられ、文久三年には幕府から注文された蒸気缶を完成させています。藩の学校が、幕府の部品を請け負う工場にもなっていたわけです。

発掘で見つかった修船場の遺構は、深さおよそ三・五メートル、幅約二十四・五メートル、長さ六十メートル以上。国内に現存する最古の乾船渠、つまりドックとされます。平成二十五年に国の史跡となり、平成二十七年七月には「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産に登録されました。飛雲丸を引き揚げて船底を手入れした場所が、そのまま世界遺産になったことになります。

ここで造った凌風丸のこと

飛雲丸を手本にして次の船が造られたといわれますが、その到達点が凌風丸です。文久三年四月の起工、慶応元年十月の完成。全長は約十八メートル、幅三・三メートル、蒸気機関は十馬力で、両舷に水車のような推進機を付けた外輪船でした。責任者は佐野常民と中牟田倉之助、田中久重も関わっています。

この船はしばしば「日本初の蒸気船」と紹介されますが、佐賀市の説明は「国内初の実用蒸気船」、日本船舶海洋工学会の資料は「我が国初の実用的蒸気船」と、いずれも限定を付けています。先に薩摩藩の雲行丸が安政二年に竣工しているものの実験的な船で、機関の完成度が低かったためです。「実用的な国産蒸気船としては初」と読むのが正確です。

船種の書き方について

飛雲丸を「木造スクーネル帆船」とする説明がありますが、佐賀県や佐賀市の公的な資料はいずれも「洋式帆船」「木造帆船」としか書いておらず、スクーナーと断定する記述を見つけられませんでした。購入年についても、佐賀県の年表は安政四年としています。原名、建造年、購入価格、最期、明治政府への献納の有無は、いずれもわかっていません。

飛雲丸を船の型と持ち主から読む

飛雲丸は蒸気機関を持たない帆船で、風の力だけで海を渡りました。(帆船と蒸気船の違い)船種は「スクーナー」。縦帆を主に使い少人数で動かせる「スクーナー型」の帆装の船です(帆の張り方・軍艦の格)。

当サイトで紹介している佐賀藩の船は、この飛雲丸を含めて12隻あり、そのうち帆船は2隻です。同じ佐賀藩の船には、電流丸(クリッパー級コルベット船)、晨風丸(カッター級輸送船)、神効丸(輸送船)、秋芳丸(輸送船)、甲子丸(バーク船)、皐月丸(バーク船)、金花丸(輸送船)、延年丸(バーク船)などがあります。

持ち主の佐賀藩の幕末をふり返ると、洋式化の先進藩。戊辰戦争では新政府軍としてアームストロング砲で活躍。飛雲丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の佐賀藩—長崎海軍伝習所

佐賀藩士と伝習所

安政二年(1855)、幕府は長崎にオランダの海軍士官を教官とする海軍伝習所を開きました。幕臣だけでなく諸藩からも伝習生が送られましたが、もっとも多くの藩士を送り込んだ藩の一つが佐賀藩です。長崎の警備を受け持っていた佐賀藩は、伝習所の近くという地の利を生かして、航海術や造船、砲術を熱心に学ばせました。

飛雲丸と伝習

飛雲丸が佐賀藩の船となった安政四年(1857)ごろは、伝習所で学んだ藩士たちが実際に船を動かし始めた時期にあたります。藩は伝習の成果をもとに、自前の海軍をつくり上げていきました。佐賀藩の海軍がのちに戊辰戦争で活躍する土台は、この伝習所で築かれたのです。

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佐賀藩の海軍を支えた人物については「佐野常民とは何をした人物か」で扱っています。

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