| 秋芳丸 | |||
| 藩名 | 佐賀藩 | ||
| 藩主 | 鍋島直正(閑叟) | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気内輪 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 50馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||

1868年に佐賀藩が購入した鉄製螺旋蒸気船です。建造国や建造時期は不明です。
所属した佐賀藩と、島義勇
この輸送船・秋芳丸を運用したのは、佐賀藩(鍋島家)です。佐賀藩が輩出した人材のひとりに、島義勇(しまよしたけ)がいます。
佐賀藩が持っていた艦船
一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている佐賀藩の艦船は十二隻で、内訳は輸送船が五隻、砲艦・軍艦が四隻、帆船が二隻、その他が一隻です。
- 凌風丸/輸送船
- 孟春丸/スクーナー級砲艦
- 飛雲丸/スクーナー
- 日進丸/バーク級巡洋艦
- 電流丸/クリッパー級コルベット船
- 晨風丸/カッター級輸送船
- 神効丸/輸送船
- 秋芳丸(この記事)/輸送船
- 甲子丸/仮装軍艦
- 皐月丸/仮装軍艦
- 金花丸/輸送船
- 延年丸/スクーナー級砲艦
数のうえで中心になっているのは、戦うための砲艦ではなく人と物を運ぶ船です。幕末の海軍は、兵を運び、米を運び、使者を運ぶ仕事から始まっていました。
島は維新後、北海道の開拓に乗り出し、原野に都市の区画を引いて、のちの札幌の礎を築きました。「北海道開拓の父」とも呼ばれます。のちに江藤新平とともに明治七年(1874)の佐賀の乱に加わり、敗れて刑死しました。秋芳丸は、その島を生んだ佐賀藩の一隻です。
幕末軍艦一覧リスト
佐賀藩の船の一覧に、この名はありません
佐賀藩は幕末でもっとも海軍に力を入れた藩の一つで、持っていた船もよく分かっています。安政四年にオランダから買った飛雲丸と、長崎で造った晨風丸。安政五年にオランダ政府から十万ドル、日本の金で七万両を払って買った電流丸。万延元年に幕府から預かった観光丸。元治元年にイギリスから買った甲子丸。慶応元年に三重津海軍所で完成した凌風丸。慶応二年にイギリスから買った皐月丸。ところが、この一覧に秋芳丸は入っていません。佐賀県の年表にも、佐賀城本丸歴史館にも、世界遺産となった三重津海軍所跡の説明にも、この名は出てきませんでした。
凌風丸は、全長十八メートルの船でした
比べておきます。佐賀藩が自前で造った凌風丸は全長およそ十八メートル、幅三・三メートル、外輪の十馬力でした。国産で初めて実用になった蒸気船として知られていますが、大きさでいえば小さな船です。秋芳丸の鉄製・五十馬力という数字は、それより上になります。
慶応四年に、佐賀藩が船を買い足した理由
秋芳丸が買われたとされる千八百六十八年、つまり慶応四年の正月、佐賀藩は長崎でもう一隻買っています。孟春丸です。前の年の一月にロンドンで造られたばかりの船で、原名をヨーゼニーといいました。この孟春丸は、薩摩藩の豊瑞丸、久留米藩の雄飛丸とともに日本で初めての艦隊行動をとり、大坂から横浜まで兵を運んでいます。佐賀藩の兵は北陸道の先鋒として従い、上野の戦いにはアームストロング砲を持ち込み、武雄の隊は羽州へ向かいました。兵を海で運ぶ必要があった年です。輸送船で鉄製、五十馬力という秋芳丸の姿は、その必要によく合っています。
船種の記述が食い違っています
伝わる記述では機関を蒸気内輪としながら、本文では螺旋蒸気船、つまりスクリューの船としています。どちらが正しいかを決められる資料は見つかりませんでした。佐賀藩の先行する船でいえば、電流丸は木造のスクリュー船、凌風丸は外輪でしたので、藩としてはどちらの方式も扱っていたことになります。
秋芳丸を船の型と持ち主から読む
秋芳丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。
当サイトで紹介している佐賀藩の船は、この秋芳丸を含めて12隻あり、そのうち帆船は2隻です。同じ佐賀藩の船には、電流丸(クリッパー級コルベット船)、晨風丸(カッター級輸送船)、神効丸(輸送船)、甲子丸(バーク船)、皐月丸(バーク船)、金花丸(輸送船)、延年丸(バーク船)、凌風丸(輸送船)などがあります。
参考資料:Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。
持ち主の佐賀藩—戊辰戦争の佐賀藩
東北へ向かった佐賀藩 秋芳丸が佐賀藩の船となった明治元年(1868)、佐賀藩は新政府軍の一員として各地に兵を送りました。江戸では上野の彰義隊を最新のアームストロング砲で攻め、東北では、奥羽越列藩同盟を離れて孤立した秋田藩を救うために、海路で兵を送り込んでいます。佐賀藩の洋式の装備は、各地の戦いで大きな力となりました。
海軍の働き 翌明治二年の箱館戦争でも、佐賀藩の船は新政府の艦隊に加わりました。幕末に長崎で学び、反射炉と造船を育ててきた佐賀藩の技術は、最後に戊辰戦争の勝敗を左右する力となったのです。



