| 金花丸 | |||
| 藩名 | 佐賀藩 | ||
| 藩主 | 鍋島直正(閑叟) | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気(方式は不明) | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 不明(木造・鉄製の両説) | ||
| 馬力 | 30馬力(伝) | ||
| 写真 | 絵図 | ||

金花丸は、明治二年(1869年)に佐賀藩が買ったとされる蒸気船です。ただし、原名も建造国も建造年もトン数も、その後どうなったのかも分かっていません。同じ名の船を姫路藩が造っていたことから、姫路藩の船と取り違えられた可能性があります。このページでは、確かめられたことと、確かめられなかったことを分けて整理します。
佐賀藩の船として確かめられるか
佐賀県立佐賀城本丸歴史館の解説には、金花丸の名は出てきません。佐賀藩の船として知られているのは凌風丸、電流丸、孟春丸、晨風丸などで、金花丸はそこに並んでいません。
幕末の艦船の取得を藩ごとに整理した朴栄濬の研究の表でも、佐賀藩の欄に並ぶのは皐月丸、飛雲丸、船名の分からない一隻、電流丸、晨風丸、甲子丸、凌風丸、孟春丸などで、金花丸は含まれていません。この表で「金花丸」が出てくるのは一か所だけ、安政六年の姫路藩の欄です。
姫路藩の金花丸との関係
姫路藩の金花丸は、安政六年(1859年)に姫路藩が自前で造った船で、長さ八間・幅一間四尺、百石積みの帆走の小舟でした。百石積みの船体にスクリューの機関を積むことは考えにくく、佐賀藩の蒸気船とされる金花丸とは作りも大きさもまるで違います。
ここから考えられる見方は二つです。一つは、同じ名を持つ別の船が二隻あったという見方。もう一つは、姫路藩の金花丸が、どこかの段階で佐賀藩の船として書き写されたという見方です。いまのところ資料の裏づけがあるのは後者ですが、藩からの届け出をまとめた史料には届けられなかった船が漏れている余地もあり、どちらとも断定はできません。
伝わる要目も食い違っています
佐賀藩の金花丸として伝わる要目は、「木造スクリュー蒸気船」とするものと、「鉄製」で機関を「蒸気内輪」とするものがあり、材質も推進の方式も一致しません。当時の呼び分けは、船の両脇に水車のような輪をつける「外車」と、船尾の水中でスクリューを回す「暗車」でした(外輪とスクリュー)。三十馬力という数字も、当時の馬力が公称馬力、つまりシリンダーの寸法から決まる目安の値であることを踏まえると、そのままの出力とは読めません。
確かめる手がかりとしていちばん有力なのは、大正七年に刊行された『佐賀藩海軍史』です。国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができ、そこにこの船名があるかどうかで、取り違えかどうかがはっきりするはずです。
佐賀藩のほかの船
佐賀藩は幕末の諸藩のなかでも早くから洋式の海軍を整えた藩で、当サイトでは皐月丸(バーク船)、延年丸(バーク船)、凌風丸(輸送船)、孟春丸(スクーナー級砲艦)、飛雲丸(スクーナー)、日進丸(バーク級巡洋艦)、電流丸(クリッパー級コルベット船)、晨風丸(カッター級輸送船)などを紹介しています(軍艦の格)。
参考資料:Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。
持ち主の佐賀藩—版籍奉還の先頭に
明治二年の佐賀藩 金花丸が佐賀藩の船となった明治二年(1869)の正月、薩摩・長州・土佐・佐賀の四藩の藩主は、そろって領地と領民を朝廷に返すことを願い出ました。版籍奉還です。「薩長土肥」の四藩が先頭に立ったことで、ほかの藩も次々に続き、この年の六月までにほとんどの藩が版籍を奉還しました。
その後 藩主はそのまま藩知事に任じられ、藩はしばらく形を残しますが、明治四年(1871)の廃藩置県で藩は完全になくなります。佐賀藩が持っていた船も、明治政府の海軍や民間の手へと移っていきました。



