三重県亀山市の伊勢亀山城。東海道の亀山宿を押さえた、石川家六万石の城です。
ここには、幕末を歩く者にとってちょっと出来すぎな取り合わせがあります。嘉永七年の大地震で壊れて、幕末に手を入れられた櫓が原位置のまま建っていて、その目と鼻の先に、元治二年に建てられた剣術の道場が——いまも竹刀の音を響かせながら——建っているのです。

取り壊された天守の話

説明板によれば、亀山城の始まりは文永二年、いまの亀山市若山町に築かれた城でした。以後、関氏十六代の居城となり、元亀四年に織田信長が関盛信を追放するまで続きます。
現在の位置に城が移ったのは天正十八年、岡本宗憲が入ってからです。このとき天守も建てられた——と伝えられています。
そして、この城でいちばん有名な逸話が出てきます。
三宅氏が城主だったころ、幕府は丹波亀山城の天守を取り壊すよう堀尾忠晴に命じました。ところが忠晴は、間違えて伊勢の亀山城の天守を壊してしまった——というのです。
説明板もそこは冷静で、「『九々五集』に記されるが真偽のほどは定かではない」と釘を刺しています。当時、亀山という名の城は丹波と伊勢の二つ。取り違えが起こりうる土壌はたしかにあった。この城には、以後ついに天守が建ちませんでした。
——余談ですが、この「亀山」という名前の紛らわしさは今も生きています。私は現地取材の記事に城名の内部リンクを張るとき、丹波と伊勢の亀山を取り違えないよう、ずいぶん気をつかっています。四百年前に天守を一つ壊した混乱が、まだ続いているわけです。
寛永の大改修と、八家の入れ替わり
城が近世の姿になったのは寛永十三年、本多俊次の大改修によってです。東西七百メートル、南北五百メートル。谷をせき止めて水堀とし、本丸・二之丸・東三之丸・西之丸・西出丸を配した。城の外周をぐるりと堀が巻く構えができあがります。
面白いのは建物の使い分けです。二之丸に城主の居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿があり、本丸には将軍家の旅館として整備された本丸御殿が置かれました。つまり本丸は殿様の住まいではなく、将軍が上洛するときの宿だったのです。東海道の宿場を預かる城らしい、実務的な割り切り方だと思いました。
城主は八家がめまぐるしく入れ替わりました。落ち着いたのは延享元年、石川総慶が六万石で入ってからです。以後石川家十一代で明治維新を迎えます。
この石川家は、徳川家康を裏切って豊臣へ走った石川数正の家ではありません。数正の叔父石川家成の系統です。同じ石川でも、こちらは徳川に忠実であり続けた家でした。
嘉永七年の大地震が、この城に残したもの

本丸の東南隅に立つ説明板の内容が、じつに具体的で良いのです。
現存する石垣は、外側(東面・南面)が高さ十三・五メートル、内側(北面)が四メートル。城内で最大規模です。長大な自然石を多用した野面積で、よく見ると宝篋印塔などの石造物が転用されている。急いで積んだ痕跡です。
そして肝心なのはここから。東面と南面は築城時のままだが、北面には古い技法が見られない——なぜか。
嘉永七年の大地震で崩れ、積み直されたからです。
嘉永七年(一八五四年)というのは、日本の地面がひどく暴れた年でした。夏には伊賀・伊勢・大和を伊賀上野地震が襲い、冬には東海道全域を安政東海地震が揺すった。伊賀上野城も掛川城も、この年の地震で大きな被害を受けています。掛川ではこのとき天守が倒壊し、二度と再建されませんでした。
亀山では、石垣が崩れ、そして多門櫓が大破しました。
三重県で唯一、原位置に残る城郭建築

石垣の上に、白い建物が載っています。多門櫓です。
東西八間(十五・八メートル)、南北六間(十・九メートル)の木造平屋建・入母屋造で、平面はL字形。寛永十年ごろの絵図にすでに描かれていますから、少なくともそのころには建っていた。
説明板が正直なのは、次の一文です。「江戸時代における修復や建て替えの記録も今のところ見いだせないが、前述の大地震で大破したと伝えられており、幕末時に相当手が加えられた可能性が高い」。
——つまり、いま目の前に建っているこの櫓は、幕末に大工が入って直した建物だということです。
私はこれまで掛川で「幕末に再建された二の丸御殿」を、松坂で「文久三年に建てられ、いまも人が住む御城番屋敷」を追いかけてきました。幕末に建てられた、あるいは幕末に直された建物がそのまま残っているという事実には、いつも独特の生々しさがあります。ペリーが来て、日本中が慌てていたその同じ時期に、この石垣の上では大工が槌を振るっていた。
明治になって、城内の建物はほとんどが取り壊されました。多門櫓が生き延びたのは、旧藩士がこれを落札し、職を失った士族たちの授産場として使ったからです。城が仕事を失った侍の作業場になった。そのあとは会議室になり、展示室になり、何度も改造されながら建ち続けました。
昭和二十八年、「旧亀山城多門櫓」として三重県の史跡に指定。本丸の石垣と、本丸の中核建築である多門櫓が、あわせて原位置に残っているのは三重県下でここだけです。
ただし、いま見えている白漆喰の姿は、近年の復原工事によるものです。長らく下見板張りの雨戸に覆われた「小屋」のような姿だったものを、絵図に基づいて創建時の姿へ戻した。幕末の骨組みに、平成の衣を着せてある——そう理解するのが正しいと思います。
元治二年の道場が、いまも道場である


城跡を歩いていて、思わず足が止まったのがここでした。
亀山演武場。
木の説明板にはこうあります。元治二年(一八六五年)、心形刀流武芸形の道場として建てられた。亀山藩主・石川成之公の庇護を受け、以来この地で剣道・居合道の稽古が続けられている、と。
元治二年です。池田屋の翌年、敦賀で天狗党が斬られたその年に、東海道の小藩の殿様が、城下に剣術道場を建てさせている。
もちろん、のんびりした話ではありません。この時期に藩が武芸を奨励するのは、来たるべきものへの備えです。長州征討があり、京は不穏で、海には黒船が来ている。剣で軍艦に勝てないことくらい誰でもわかっていたでしょうが、それでも藩は道場を建てた。
そして、その道場がいまも道場として使われているのです。昭和六十年に不慮の火災に遭いましたが復元され、いま建っているのは江戸期の面影を写した建物です。心形刀流武芸形は三重県の無形文化財に指定されています。
建物の前で、しばらく立っていました。藩は無くなった。城の建物もほとんど無くなった。それでも、藩主が建てた道場でいまも人が竹刀を振っている。幕末という時代の残り方には色々ありますが、これはかなり幸福な残り方だと思いました。
幕末の亀山藩——街道にいたから、割れた
その石川成之が、伊勢亀山藩の最後の藩主です。
慶応四年、戊辰戦争が始まると、亀山藩は尊皇派と佐幕派に割れて対立しました。譜代である以上、旧幕府を見捨てられない者がいる。一方で、朝敵になることを恐れる者もいる。はじめ旧幕府側に与し、やがて新政府軍に恭順しました。
そのあとがなかなか厳しい。恭順した亀山藩は、桑名や鳥羽への出兵に藩兵を出し、東征にも従っています。同じ伊勢の、同じ譜代の城下へ、兵を向けたわけです。
東海道と伊勢街道が交わるこの土地は、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈のど真ん中でした。情報も兵も、いちばん早く届く場所にいた。だからこそ京の政局が直に藩論を揺さぶり、割れた。津の藤堂家が鳥羽伏見で味方の背後を撃ったのも、吉田が尾張の斡旋で早々に降りたのも、根は同じです。街道にいる藩は、動きを間違えると即座に踏み潰される。
明治二年の版籍奉還で成之は亀山藩知事となり、明治四年七月十四日の廃藩置県で伊勢亀山藩は消えました。亀山県、安濃津県を経て三重県へ。そして明治六年の廃城令で、城の建物はほとんどが取り壊されます。
歩いてみて
亀山城には、粉蝶城(こちょうじょう)という優雅な別名があります。白い漆喰の櫓が、緑の丘に蝶がとまったように見えたからだといわれます。実際に多門櫓を見上げると、たしかに白い。黒々とした野面積の石垣の上に、その白がぽつんと載っている。名前をつけた人の気持ちはわかる気がしました。
ここまで東海と伊勢の城を続けて歩いてきて、正直なところ「遺構があまり残っていない」城跡が多かったというのが率直な感想でした。沼津も興国寺も、津も、公園になっていたり、標柱だけだったり。それはそれで嫌いではないのですが、少し物足りない気持ちがずっとありました。
亀山は違いました。石垣の上に建物が載っている。それも幕末に手を入れられた建物が、動かされずにその場所に。さらに歩けば、幕末に建った道場から、いまも人の声がする。
掛川で二の丸御殿を、松坂で御城番屋敷を、田中で本丸櫓を——私は現地で見るべきものを三つ続けて見落としてきました。亀山では、さすがに見落としませんでした。多門櫓は本丸に登れば必ず目に入りますし、演武場は道の途中にあります。
三度失敗して、四度目でようやく本物の建物にたどり着いた。城めぐりというのは、そういう積み重ねなのだろうと思います。
アクセスと地図
伊勢亀山城跡(亀山公園)/三重県亀山市本丸町。JR関西本線の亀山駅から徒歩十分ほど。多門櫓の内部は無料公開されています(公開日が限られることがあるので事前確認を)。
本丸の石垣は、上から見るだけでは高さがわかりません。必ず下へ回り込んで見上げてください。十三メートル半という数字が、体感として入ってきます。亀山演武場は本丸のすぐ近く、亀山市歴史博物館や旧亀山藩校明倫舎の跡も徒歩圏です。城下の東海道・亀山宿の町並みとあわせて、半日かけて歩く価値があります。
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「亀山城本丸東南隅石垣と多門櫓」
- 現地の案内板「亀山藩御流儀 心形刀流武芸形」
- 亀山市歴史博物館
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