【現地取材】高天神城を歩く——幕末には城でなかった山と、この城を殺した横須賀藩

はじめに正直に書いておきます。高天神城に、幕末はありません。

この山が城だったのは戦国のあいだだけで、天正九年に落ちたあとは二度と城になりませんでした。幕末どころか、江戸時代を通じてただの山です。

それでも私がここを歩いて記事にしたいと思ったのは、この山を落とすために徳川家康が築いた「向城」が、そのまま幕末まで生きのびたからです。城は死に、城を殺すために作られた城が生き残った。遠江という土地の幕末は、じつはその一点から始まっています。

登山口に掲げられた「高天神城想像図」。二つの峰を痩せ尾根がつなぐ、いわゆる一城別郭の縄張がよくわかる
登山口に掲げられた「高天神城想像図」。二つの峰を痩せ尾根がつなぐ、いわゆる一城別郭の縄張がよくわかる
目次

「高天神を制する者は遠州を制す」

静岡県掛川市、標高百三十メートルほどの鶴翁山(かくおうざん)。単独でぽつんと立つ山ではなく、平野へ突き出した尾根の先端です。登山口の想像図を見ると、山が二つのこぶに分かれ、その間を細い尾根がつないでいるのがわかります。一城別郭——東西二つの独立した城を、痩せ尾根一本でつないだ構えです。

「高天神を制する者は遠州を制す」という言葉が伝わっています。誇張ではありません。ここを押さえれば、東は駿河、西は掛川・浜松、南は遠州灘へ睨みが効く。だからこそ今川・武田・徳川が代わるがわる血を流しました。

もとは今川氏の支城でした。桶狭間ののち今川が崩れると、城主の小笠原氏は徳川方につきます。元亀二年、武田信玄が大軍で攻めましたが、この山は落ちませんでした。信玄が落とせなかった城——それが高天神の看板になります。

二度の落城と、武田家の終わりの始まり

信玄が落とせなかった城を、息子の武田勝頼が落とします。天正二年、勝頼は二万を超える兵で山を囲み、城将の小笠原氏は開城しました。父ができなかったことをやってのけた——このとき勝頼の武名は絶頂に達します。

ところが翌年、長篠で武田は大敗します。以後、高天神は孤立した最前線になりました。

家康の攻め方は執拗でした。力攻めをせず、天正六年に南の横須賀へ向城(むかいじろ)を築き、山のまわりに六つの砦を並べて、兵糧の道を一本ずつ断っていく。兵糧攻めです。

城将岡部元信は何度も甲斐へ援軍を請いました。しかし勝頼は動けませんでした。動かなかったのではなく、長篠のあとの武田にもう余力が無かったのです。

天正九年三月、飢えた城兵は打って出て、岡部元信以下ほぼ全員が討たれました。

この落城が武田家に与えた打撃は、城一つ分ではありませんでした。「勝頼は見殺しにする」——そう受け取られたことで、家中の信望が音を立てて崩れます。翌天正十年、織田・徳川の甲州征伐が始まると、武田方の城は次々に戦わずして自落しました。小山城が城兵に捨てられたのも、この年です。

搦手門跡の標柱と説明板。ここから登ると、いきなり尾根の懐に入ることになる
搦手門跡の標柱と説明板。ここから登ると、いきなり尾根の懐に入ることになる
石段は近年整備されたもの。両脇に川原石を並べた歩きやすい道が本丸まで続く
石段は近年整備されたもの。両脇に川原石を並べた歩きやすい道が本丸まで続く

そして、城を殺した城が幕末まで残った

高天神城は落城後、再建されませんでした。家康にとって、この山はもう不要だったからです。必要だったのは、この山を殺すために作った横須賀のほうでした。

横須賀城は、そのまま遠州灘に面した城として江戸時代を生きます。天和二年に本多家が改易されると、信濃小諸から西尾家が二万五千石で入り、以後幕末まで西尾家の城下でした(幕末には三万五千石)。高天神城跡のある一帯も、江戸期を通じてこの横須賀藩の領内です。

つまり——山を歩いている私の足元は、幕末には西尾家の御領分だったわけです。

幕末の横須賀藩——譜代なのに、二つに割れた

その西尾家の幕末が、また面白いのです。

西尾家は譜代の名門です。徳川に殉じるのが当たり前の家柄でした。ところが幕末になると、藩内は佐幕派と尊皇派に真っ二つに割れ、抗争が続きます。二万五千石の小藩で、家中が二つに分かれて睨み合っていたわけです。

決着をつけたのは外圧でした。戊辰戦争が始まると、尾張藩の説得を受けて藩論を尊皇に統一し、新政府の東征軍に従って各地を転戦します。——桑名の松平定敬が最後まで戦って蝦夷まで落ちのびたのとは、まるで逆の選択でした。同じ譜代でも、家によってこれだけ道が分かれます。

そして幕府が倒れると、西尾家もまた房総へ渡ります。徳川宗家が駿河・遠江へ移ってきたための替地として、安房長狭郡の花房村へ三万五千石で入部花房藩の誕生です。沼津掛川浜松田中・相良と、まったく同じ運命です。

高天神を落とすために築かれた城の主が、二百八十年後、その徳川に土地を明け渡して安房へ去った。——この山に立って考えると、なかなかに皮肉な巡り合わせです。

山を歩く

「三ヶ月井戸」。尾根のくぼみに、いまも水がにじんでいる
「三ヶ月井戸」。尾根のくぼみに、いまも水がにじんでいる

登り口は追手(大手)と搦手の二つ。私は搦手側から入りました。石段は近年よく整備されていて、両脇に川原石が並べてあります。とはいえ登り一辺倒で、途中に平らな場所がほとんど無い。夏に登るものではありませんでした。

途中の尾根のくぼみに、三ヶ月井戸があります。しめ縄の張られた岩の下に、いまも水がにじんでいました。標高百三十メートルの尾根の上で水が出る——これがこの山が城になれた理由の一つでしょう。逆にいえば、天正九年に城兵を追いつめたのは水ではなくだったということです。

本丸付近に立つ苔むした石碑。表面は地衣類に覆われ、文字はほとんど読み取れない
本丸付近に立つ苔むした石碑。表面は地衣類に覆われ、文字はほとんど読み取れない

本丸のあたりに、苔と地衣類にびっしり覆われた石碑が立っていました。文字がほとんど読めません。目を凝らして、かろうじて数文字の輪郭が拾える程度。近くの説明板を読めば由来はわかるのでしょうが、私はあえてしばらく碑の前に立っていました。

読めない碑というのは、案外いいものです。誰かがここで死んだこと、誰かがそれを悼んで石を立てたこと、そして四百年のあいだに苔がそれを覆ってしまったこと。読めないという事実そのものが、経過した時間の量を伝えてくる

歩いてみて

麓の「高天神城址」の標柱。刈り取りの済んだ田の向こうに、城のあった鶴翁山が横たわる
麓の「高天神城址」の標柱。刈り取りの済んだ田の向こうに、城のあった鶴翁山が横たわる

山を下りて、麓の標柱のところまで戻ってきました。木の鳥居のような門があって、その向こうに田んぼが広がり、さらに向こうに、いま登ってきた山が横たわっている。

この構図が、私にはいちばん高天神らしく見えました。いまここは、ただの里山と田んぼです。コンビニも土産物屋もなく、天守も櫓もない。「高天神を制する者は遠州を制す」と言われた山が、四百数十年かけてすっかり普通の山に戻っている。

これまで鹿島城跡小田城跡でも、「幕末には城でなかった場所」を歩いてきました。そういう場所に立つとき、私はいつも同じことを思います。幕末の人たちも、この山を「昔の城跡」として眺めていたのだ、と。

横須賀藩士たちにとって、高天神は自分の藩の領内にある古戦場でした。佐幕か尊皇かで斬り合いかねないほど揉めていた彼らが、この山を見上げて何を思ったか。二百八十年前、殿様の先祖が仕えた徳川が、この山を兵糧攻めで干し殺した——その話は、当然のように語り伝えられていたはずです。

そして彼らは、尾張藩の説得を受けて徳川を見限り、まもなく安房へ移されていきます。この山を見上げて育った侍が、この山を捨てて船で房総へ渡った。幕末の遠江というのは、そういう土地です。

アクセスと地図

高天神城跡/静岡県掛川市上土方嶺向・下土方。国の史跡で、続日本百名城にも選ばれています。追手(大手)側と搦手側の二か所に登山口があり、それぞれに無料駐車場があります。搦手側のほうが本丸へは近いですが、いずれにせよ登りは山道です。スニーカー以上の靴で行ってください。

所要はゆっくり回って一時間から一時間半ほど。夏はとにかく暑く、虫も多い。秋から早春が圧倒的に歩きやすい季節です。御城印は麓の「大東北公民館」などで扱われています(取扱先は変わることがあるので事前確認を)。

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この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 現地の案内板「高天神城址」

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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