三重県松坂城跡。建物は何も残っていません。あるのは石垣だけです。
ただしその石垣が、とんでもない。歩いても歩いても石垣が続き、見上げれば高く、覗き込めば深い。「石垣しか残っていない」ではなく「石垣が残っている」と言うべき城跡でした。
そして幕末に関して言えば、この城のいちばん重要な遺構は城の外にあります。それを私は見落として帰りました。順に書きます。

蒲生氏郷が築き、紀州徳川家の城代が守った城


説明板によれば、松坂城は天正十六年(1588)に蒲生氏郷が築城した平山城です。標高三十八メートルほどの、伊勢平野中央部にある独立丘陵の上。北東を大手、南東を搦手としています。
ところが氏郷は天正十九年(1591)に陸奥黒川(現在の会津若松)へ移封されます。会津と松坂が、氏郷という一人の大名でつながっているわけです。
その後、城主は服部一忠、古田重勝・重治と替わり、そして決定的な変化が訪れます。元和五年(1619)、徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に松坂は和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢州領(松坂・田丸・白子など十八万石)を統轄する城代が置かれた——と説明板は記します。
つまり江戸時代の二百五十年間、松坂城に城主はいません。いたのは紀州徳川家から派遣される城代です。藩庁ではなく、出先機関。この「城主のいない城」という性格が、幕末の話に効いてきます。
なお天守台にはかつて三層の天守がそびえていましたが、正保元年(1644)の大風により倒壊したと記録に残っています。三の丸の周囲には幅十五〜三十一メートル、総延長二キロ余りの水堀がありましたが、明治になって埋められました。
石垣を歩く


この城跡の主役は石垣です。本丸・二の丸などの中央部分は高い石垣がそのまま残り、国の指定史跡になっています(平成二十三年二月七日指定、面積四七,三三七平方メートル)。
とくに中心部分の天守付近には、築城時と思われる自然石を組み合わせた野面積みの石垣がよく残っています。加工していない石をそのまま積んだ、荒々しい積み方です。江戸期の整った切込接ぎとは肌ざわりがまったく違う。四百三十年以上前の石が、そのまま角を保っていると思うと足が止まります。


歩いていて感心したのが、この枡形です。道が石垣で挟まれ、直角に折られる。攻め手はここで速度を落とさざるを得ず、上から狙い撃ちにされる。天正期の城の設計が、建物ひとつ無いのに体でわかります。


本丸跡と天守閣跡には、それぞれ石の標柱が立っています。天守閣跡のほうは、まわりに自然石がごろごろしていて、地面がそのまま岩盤だとわかる。丘の上に石を積んだのではなく、岩の丘をそのまま城にしたのだという感じがしました。

そして幕末 ― 見落として帰った、御城番屋敷
ここからが本題です。そして白状から始めます。
入口の大型案内板に、四つの見どころが写真つきで並んでいます。そのうちの一つに、こう書かれていました。
重要文化財 御城番屋敷
江戸末期に旧紀州藩士が松坂城警護のために移り住んだ武家屋敷。このような組長屋は全国でも大変珍しく、その中の西端北端の一軒は内部を公開している。
「江戸末期に」。この城跡でいちばん幕末に近い建物が、すぐそこにあったのです。そして私は石垣に夢中で、そこへ足を延ばさずに帰りました。掛川城で二の丸御殿を見逃したのと、まったく同じ失敗です。
帰ってから調べて、この屋敷の来歴に驚きました。
禄を捨てた二十人と、六年の浪人生活
御城番屋敷に住んだのは、紀州藩の直臣となった「松坂御城番」という人たちです。ただし、彼らは最初から直臣だったわけではありません。
もともとは紀州藩の家老・田辺の安藤家に付けられた二百〜三百石取りの与力衆でした。ところがあるとき、安藤家の陪臣(家来の家来)になれと命じられます。
彼らはこれを拒みました。安政三年(1856)、与力衆二十人が脱藩して浪人となります。いわゆる田辺与力騒動です。
安政三年といえば、日米和親条約の二年後。ハリスが下田に着いた年です。国全体が大きく揺れているそのときに、格式をめぐって禄を捨てた武士が二十人いた。
そして六年間の浪人生活。二百石が消え、無禄で六年。子もいたはずです。
その末に、彼らは紀州藩主の直臣として四十石取りで帰参を許され、松坂御城番の職に就きました。二百石が四十石ですから、五分の一です。それでも「陪臣ではなく直臣」という一点を、彼らは取り戻した。
その住居として文久三年(1863)、松坂城南東の三の丸に新築されたのが、あの長屋です。
文久三年。八月十八日の政変があり、新選組が生まれ、長州が京都を追われた年です。京都が煮えたぎっているその年に、伊勢の城下では、筋を通して六年浪人した男たちがようやく自分の家を手に入れていた。
そして今も、人が住んでいる
この屋敷は平成十六年(2004)十二月十日に「旧松坂御城番長屋」として国の重要文化財に指定されました。
けれども、いちばん驚いたのはここです。現存する十九戸のうち十二戸が、いまも借家として貸し出され、実際に人が住んでいます。(一戸は平成二年から松阪市が借用し、創建当時の姿に復元して公開)
重要文化財に住んでいる。しかも、幕末に建てられた武士の長屋に。石垣しか残っていないこの城で、いちばん生きている遺構が、城の外の住宅だったわけです。
もう一人、この城跡に住んだ人 ― 本居宣長
案内板のもう一つの見どころが、鈴屋(すずのや)——特別史跡「本居宣長旧宅」です。宣長が十二歳から亡くなるまで暮らした家が、城跡の敷地内に移築されています。城内にはほかに本居宣長記念館があり、『古事記伝』で知られる国学者の自筆稿本や愛蔵の品が約一万六千点収蔵されています。
「本居宣長は幕末じゃないでしょう」と言われれば、そのとおりです。宣長が世を去ったのは享和元年(1801)、ペリー来航の五十二年前。
ただ、幕末を動かした思想の源流をたどると、必ずこの人に行き着きます。
宣長の国学は、漢意(からごころ)を退けて日本古来の姿を明らかにしようとする学問でした。その系譜は没後の門人・平田篤胤へと受け継がれ、平田国学として全国の草莽の志士たちに広がっていきます。幕末に各地で尊皇の旗を掲げた人々——神職、庄屋、村の学者——の多くが、この流れのなかにいました。
水戸で会沢正志斎の『新論』が読まれ、筑波山で天狗党が兵を挙げたとき、その根には水戸学と並んで国学があった。松坂の町医者の家で『古事記』を読み続けた男の仕事が、七十年後に人を動かしたわけです。
そう考えると、この城跡はなかなか贅沢な場所です。思想の源流(鈴屋)と、その時代を生きた武士の家(御城番屋敷)が、同じ丘に並んでいる。
紀州藩と鳥羽伏見
松坂を統轄していた紀州藩は、幕末をどう迎えたか。
紀州藩五十五万五千石、藩主は徳川茂承。御三家として当然、幕府側の柱でした。そして鳥羽・伏見の敗戦のあと、敗走してきた旧幕府軍を受け入れています。
同じ伊勢国でも、津の藤堂家は鳥羽・伏見で旧幕府軍を突如攻撃して新政府側に転じました。隣り合う二つの大藩が、まったく逆の動きをしたわけです。その津藩の話は、別の記事で書きます。
そして松坂の御城番たちは、この間ずっと城の警護に就いていました。藩主のいない城を、六年浪人した末の四十石で守り続けた。戊辰の戦場に出た記録は見当たりません。ただ黙々と、自分たちが取り戻した務めを果たしていたのだと思います。
歩いてみて
石垣は本当に良かった。野面積みの荒さ、枡形の折れ、曲輪ごとに変わる高さ。建物が何も無いからこそ、城の骨格がむき出しで見えるタイプの城跡です。国史跡なのも納得でした。
それだけに、御城番屋敷を見落として帰ったのが痛恨です。案内板にちゃんと写真つきで載っていたのに、石垣に気を取られて読み飛ばした。
幕末歴史ガイドとして書くなら、この城の主役は間違いなくあの長屋です。陪臣にされるのを拒んで二十人が脱藩し、六年浪人し、五分の一の禄で帰参して、文久三年に建ててもらった家。そしてその家に、百六十年後の今も人が住んでいる。
幕末というと、どうしても京都で斬り合う話や、大砲を撃ち合う話になりがちです。でも当時の武士の大半は、こういうところで生きていたはずなのです。格式にこだわって禄を捨て、六年耐えて、四十石で城番に就く。それが幕末を生きるということだった。
次に松阪へ行ったら、まっすぐ御城番屋敷へ向かいます。石垣はそのあとです。
アクセスと地図
松坂城跡(松阪公園)/三重県松阪市殿町。JR・近鉄の松阪駅から徒歩約十五分。入園無料、石垣は自由に歩けます。足もとは石と土なので歩きやすい靴で。石垣の縁に柵の無い箇所があるので、覗き込むときはご注意を。
御城番屋敷/松坂城跡の南東、搦手の坂を下りてすぐ。城跡とセットで必ず訪ねてください(私はここで失敗しました)。西端北端の一軒が内部公開されています。生活されている方のお住まいでもあるので、見学は静かに。
あわせて鈴屋(本居宣長旧宅)と本居宣長記念館も城内にあります。
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「史跡 松坂城跡」
- 本居宣長記念館
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